チェコの歴史
チェコの歴史年表
1月1日 | 元日 |
9世紀 | 大モラヴィア帝国建国 |
906年 | ハンガリー人(マジャール人)の侵入の影響で大モラヴィア帝国崩壊 |
10世紀初頭 | プシェミスル家がチェヒ国を建国 |
921年 | ボヘミア王国が成立、ヴァーツラフ1世(のちにボヘミアの守護聖人に)が国王に即位。プラハが首都として基礎が築かれる。 9月28日がヴァーツラフを讃える日でチェコの祭日となっている。 |
1003年 | ヴァーツラフⅠ世没後、その弟ポーランド公ボレスラフⅠ世はドイツ王と共に戦ってハンガリーを追い、チェコは神聖ローマ帝国(ドイツ)の支配を受けながらも自立した国家となる。 |
1004年 | プシェミスル家が神聖ローマ帝国に臣従、ボヘミア公の座を取り戻すとともに神聖ローマ帝国の領邦となる。 以来、プシェミスル家のもとでチェコ(ボヘミア)は世襲王国が続く。 |
11~14世紀 | ドイツ人、ユダヤ人の移住が進み、ドイツ文化が浸透 |
1212年 | ボヘミア王の称号と世襲が承認され、選帝侯となる |
1310年 | プシェミスル朝断絶、ルクセンブルク家のヨハンがボヘミア王を継承 |
1346年 | ルクセンブルク家ヨハンの子のカレル1世が神聖ローマ皇帝カレル4世(カール4世)に即位(~1378)。 カレル橋・火薬塔が造られるなど、現在のプラハの基盤が出来上り、プラハは中央ヨーロッパの文化と交流の中心地として黄金時代を迎える。 |
1348年 | カール4世はプラハに中欧最古のカレル(カール)大学(プラハ大学)設立 |
15世紀初頭 | プラハ・カレル大学総長ヤン・フスによって、カソリックの教皇はじめ高位聖職者の世俗化を批判して宗教改革を唱え、チェコ語による説教が行われる。 |
1414年 | コンスタンツ公会議にてヤン・フスが異端として火刑に処される。 フス派は宗教改革を主張し、その後のフス戦争(ドイツ皇帝との戦い:1419-1436年)へとつながって行く。 |
1419年 | フス派信者が市長らを市庁舎の窓から放り投げる(第一次プラハ窓外放擲事件) |
1419年 | フス派信者と神聖ローマ帝国・カトリック教会のあいだにフス戦争勃発 |
1436年 | 神聖ローマ皇帝とフス派穏健派が停戦、フス戦争終結 急進派はフス派の内部抗争で壊滅 |
1437年 | 神聖ローマ皇帝にアルブレヒト2世が即位、ボヘミアはハプスブルク家の支配下におかれる。 しかし、チェコの王位はハンガリー王・ポーランド王などへ実質的な支配者は転々として移り、最終的にオーストリアのハプスブルク家が第1次世界大戦終了時(1918年)まで王位を世襲することになり、チェコの独立性は次第に失われていく。 ハプスブルク家が神聖ローマ皇帝とボヘミア王を兼ねるようになると、プラハは神聖ローマ皇帝の王宮、政治や文化の中心として発展した。とりわけルドルフ2世(在位:1576年 - 1612年)は、プラハ城を主たる居城とした。 教養人だったルドルフ2世は文化や芸術を保護したため、その下にはルーラント・サーフェリーをはじめとする多数の芸術家が集まり、帝国の首都としてプラハは文化的に大いに繁栄した。 |
1618年 | 新教弾圧に反発した民衆が国王の使者をプラハ城の窓から放り投げる(第二次プラハ窓外放擲事件) |
1618年 | ボヘミアの新教諸侯たちとハプスブルク家の諍いから30年戦争勃発。チェコの国土は永い間荒廃する。 |
1620年 | ビーラー・ホラ(白山)の戦いでボヘミア諸侯のチェコ軍が皇帝軍に大敗、新教貴族は国外追放や財産没収などを課せられる。 |
1638年 | スウェーデン軍がボヘミア侵攻、国土荒廃 |
1648年 | ヴェストファーレン条約で新教徒の権利が認められるも、ボヘミア王位はハプスブルク家の世襲となる。 チェコは、オーストリア帝国内にあって次第に繁栄していく。 |
1741年 | オーストリア継承戦争により、シュレージエン(シレジア)地方の大半がプロイセンに支配される |
1781年 | ヨーゼフ2世、チェコの農民の人身隷属を廃止。このころから次第にチェコ人の文化的な再生運動が始まる。 民族復興運動が興り、スメタナ、ドボルザーク、ヤナーチェックなどの音楽家が国民を鼓舞し、チェコ語演劇のための国民劇場が設立されたりしている。 |
1836年 | パラツキー、「チェコ民族史」刊行 |
1848年3月 | プラハで皇帝に対する請願運動が始まる |
1848年5月29日 | プラハに仮政府樹立 |
1848年6月 | プラハでスラブ民族会議開催 |
1848年6月12日 | プラハで急進派の暴動が発生するが、オーストリア軍によって鎮圧され、チェコでの革命運動は挫折する |
1867年 | オーストリア・ハンガリー帝国成立。 チェコ人はこの改革に強い不満をもつ |
1879年 | チェコ民族劇場完成(完成直後に焼失したが、1883年に再建される) |
1880年 | ターフェ内閣、ボヘミアとモラビアに言語令を発布 |
1897年 | バデーニの言語令問題でチェコ人とドイツ人の対立が激化する |
1914年7月28日 | 第一次世界大戦勃発(~1918) |
1914年12月 | マサリク、西欧へ亡命し、チェコスロバキア独立運動を始める |
1916年 11月 | プラハにチェコスロバキア民族委員会設立 |
1918年 10月28日 | チェコスロバキア民族委員会の独立宣言 |
1918年 10月30日 | スロバキア民族会議、チェコとの結合を宣言 |
1918年 11月14日 | 革命国民議会、正式にチェコスロバキア共和国の成立を宣言。 初代大統領にマサリク選出(~1935) |
1920年 2月29日 | 新憲法制定 |
1924年1月 | フランスと相互援助条約締結。このころから新国家の政治と経済はいちおう安定する |
1929年10月 | 大恐慌始まる。チェコスロバキアでも多くの労働者が職を失う |
1935年5月16日 | チェコ・ソ連相互援助条約を締結 |
1935年5月19日 | 議会選挙でズデーテン・ドイツ党が第二党に進出し、チェコ人とドイツ人との対立が深まる |
1935年11月18日 | ベネシュが大統領に就任(~1948) |
1938年9月29日 | ミュンヘン会談で英仏伊独首脳はドイツのズデーテン地方併合合意でナチス・ドイツに割譲。更にはポーランドとハンガリーにも領土を割譲。 |
1938年10月 | ベネシュはロンドンへ亡命 |
1939年3月 | ナチス・ドイツ進駐、ミュンヘン協定により、チェコスロヴァキア共和国解体 チェコは「ボヘミア・モラヴィア保護領」となる スロバキアはドイツの保護のもとで独立する。 |
1939年9月1日 | 第二次世界大戦開始(~1945) |
1940年 | ロンドンにベネシュのチェコスロヴァキア共和国亡命政府が成立 |
1941年7月 | 連合国、ベネシュのチェコスロヴァキア共和国を承認 |
1942年6月 | リディツェ村虐殺事件 |
1944年8月 | スロバキア蜂起始まる |
1944年10月 | ソ連軍、チェコスロバキア領国境を越える |
1945年4月4日 | ベネシュはコシツェにおいて共産党を含む連立政権をつくる。 5日、コシツェ綱領発表 |
1945年5月5日 | プラハ蜂起 |
1945年 | ナチス・ドイツ敗走、ソ連軍によって「解放」される。 第二次世界大戦後、独立回復。 |
1945年 | ベネシュ大統領がドイツ・ハンガリー系住民の追放を命令、250万人に及ぶドイツ系住民が追放される |
1946年5月26日 | 国民議会選挙で共産党が第一党となる |
1946年7月2日 | ゴットワルト内閣成立 |
1947年7月 | 政府はマーシャル・プラン参加を決定するが、ソ連の圧力で撤回する。このころから政府内の左右対立が表面化してくる |
1948年2月20日 | 非共産党系の閣僚が辞表を提出したために政治危機が激化 |
1948年 | 非共産系のヤン・マサリク外務大臣が外務省敷地にて転落死体として発見される(第三次プラハ窓外放擲事件とも) |
1948年2月25日 | ソ連の圧力によるクーデターでベネシュ大統領は辞表を受理し、事実上、共産党が政権を掌握する(チェコ二月革命) |
1948年5月9日 | 新憲法採択 |
1948年6月7日 | ベネシュ大統領辞任 |
1948年6月12日 | ゴットワルトが大統領に就任 |
1949年1月 | 第一次5か年計画開始 |
1949年7月 | 粛清始まる |
1953年6月 | 通貨改革実施。各地で暴動が発生 |
1960年7月11日 | 社会主義共和国憲法制定。国名はチェコスロヴァキア社会主義共和国となる。 |
1968年1月 | ドプチェク党第一書記就任(~1969) 言論の自由化や計画経済への市場原理の導入、粛清犠牲者の名誉回復といった共産党体制の改革を進めた(毎年春に開催される音楽祭にちなんで「プラハの春」と呼ばれる)。 |
1968年4月 | 党中央委員会、「行動綱領」採択 |
1968年6月 | 「二千語宣言」発表 |
1968年8月20日 | ワルシャワ条約機構軍による軍事介入で、ドゥプチェク第一書記による共産体制改革の試みは挫折(チェコ事件)、「プラハの春」は終わりを告げた。 |
1969年1月1日 | 憲法改正により連邦制へ移行 |
1969年4月 | ドゥプチェクは党第一書記を解任され、代わってグスターフ・フサーク、党第一書記に就任 |
1975年5月 | フサーク、大統領を兼任。改革に賛同していた党員や知識人などは公的生活から追放された。 |
1977年1月6日 | 哲学者ヤン・パトチカや劇作家ヴァーツラフ・ハヴェルなど反体制派知識人が「憲章77」を発表し、政府の人権抑圧に抗議する運動を起こす。 |
1984年10月 | サイフェルト、ノーベル文学賞受賞 |
1985年 | ソビエト連邦でペレストロイカが始まると、チェコスロバキアでも改革の機運が高まり始めた。 |
1989年8月19日 | 既に民主化を進めていたハンガリーで汎ヨーロッパ・ピクニックが成功すると、オーストリアに隣接するチェコスロバキアにも西ドイツへの越境を求める東ドイツ市民が大量に流れ込み、プラハ市民は西ドイツ大使館内にあふれる数千人の東ドイツ市民を目撃するようになった。 |
10月18日 | 東ドイツで強権的な体制を敷いていたエーリッヒ・ホーネッカードイツ社会主義統一党書記長が失脚し、チェコスロバキア当局は東ドイツとの関係悪化におびえながらも、11月3日には西ドイツの求めに応じ、東ドイツ市民の西側への輸送を開始した。 |
11月9日 | ハンガリーに続いてチェコスロバキアが「鉄のカーテン」の撤去に踏み切ったことで、冷戦の象徴だったベルリンの壁が崩壊した。 |
11月16日 | この日までに、チェコスロバキア周辺のほとんどの共産党国家が、共産党一党独裁支配を放棄し始めた。 |
1989年11月17日 | ビロード革命。大規模な民主化デモの結果、共産党の指導権を憲法から削除。流血の事態なく共産党体制が崩壊。 この革命は、1か月後のルーマニア革命のように大きな流血に至る事態は起こらなかったことから、軽く柔らかなビロード(ベルベット)の生地にたとえて名付けられた。 スロバキアでは「静かな革命」と呼ぶ。 |
1992年 | 市場経済への移行政策や連邦政府と共和国との権限配分をめぐって、チェコとスロバキアの対立が深まる。 |
1993年1月 | 連邦を解消し、チェコとスロバキアが平和裡にそれぞれ分離独立(ビロード離婚)。 チェコ共和国が成立、ハベルが初代大統領に就任(1998年再選) |
1993年3月 | スロバキア、コバーチが初代大統領に就任 |
1995年12月 | 経済協力開発機構(OECD)に加盟 |
1999年3月 | 北大西洋条約機構(NATO)に加盟 |
2003年3月 | チェコ、クラウスが大統領に就任 |
2004年3月 | スロバキア、NATO加盟 |
2004年5月 | チェコ、スロバキアともにヨーロッパ連合(EU)加盟 |
2005年2月 | チェコの下院が「プラハの春」(共産主義政権下の1968年に起きた民主化運動)の弾圧補償金支払い法案を可決 |
2006年1月 | カルパティア条約(カルパティア山脈の保護と持続可能な開発に関する枠組み条約、森林や川などの自然、野生生物や文化遺産などの保護をめざす)が発効(スロバキア、ウクライナ、チェコ、ハンガリーの4か国が批准) |