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チェコの文化伝統芸能音楽


音 楽

強力な帝国の中心地には王侯貴族がたくさんいて、音楽をはじめ幅広い芸術の花が咲くものだが、ウイーンを頂点とするハプスブルグ家のオーストリア・ハンガリー帝国では音楽が高度に広まっていた。同じ帝国内のあった現在のチェコにも、音楽家はたびたび訪れ文化の花を咲かせていた。
一方、ボヘミアとモラヴィアの2つの地域に生きる民族が独自に発展させた民俗音楽は多様なリズムを生み出している。

プラハにはモーツァルトに関係のある建造物も多く、ボヘミア地方のカルロビ・バリやテプリッツァといった温泉保養地にはベートーベンも訪れていて、いろいろ逸話も語られることが多い。
スメタナやドボルザークをはじめ、世界的に著名な作曲家もチェコが生み出している。
さらにたくさんの音楽家が育つはずだったが、ナチス・ドイツによりこぞってアウシュビッツへ移送され、虐殺されてしまったり、戦後の共産主義国家にあって音楽家は育たなかった。

プラハの演奏会場

国立歌劇場(State Opera)
市民会館のスメタナホールSmetana Hall)
ルドルフフィヌム(ドヴォルザークホール)

そのほか
モーツアルト博物館のベトルラムカBertramka
ジシュカZizkovのアトリウム


チェコの交響楽団

プラハ交響楽団
www.fok.cz

プラハフィルハーミニー管弦楽団
www.czechphilhamonic.cz

チェコナショナル交響楽団
www.cnso.cz

プラハのモーツァルト

プラハの人々はモーツァルトを自分の国の作曲家なみに扱っている。
市内には、モーツアルトの名前が出てくる劇場や記念館が随所にある。
ウィーンでの初演の評判は良くなかった「フィガロの結楷」がプラハでは大当りをとり、次の「ドン・ジヨヴアン二」をプラハの劇場のために書かせることになったが、その劇場とは今も旧市街の繁華街にあるスタヴオフスケー劇場である。
モーツァルトが書きかけの「ドン・ジヨヴアン二」を持って、1787年10月に2度目のプラハ訪問を行なったとき最初に泊って仕事をした家が、劇場から歩いて数分の昔石炭市場があった小広場の一隅にあり、それが今も普通の住宅として残っているのは、歴史の古いこの街らしい。
しかし、ここでは仕事にならなかったのか、途中からプラハ市の南西部、ヴルタヴアの川岸から1kmぐらい西に入ったところの、黒い丘と呼ばれ
ている小高い丘の中腹の大きな庭園のなかにあるベルトラムカ荘に移って、完成した。 ザルツフルクで知り合った音楽家ドウシ工ク夫妻の別荘で、その建物は現在モーツァルト記念舘になっている。
「ドン・ジョヴアンニ」を書き上げた仕事部屋には、彼の毛髪と称するものがガラス箱の中に陳列されていたりもするが、気候のいい頃にはその庭園でモーツァルトのセレナードなどを曲目の中心に据えた野外コンサートもよく行われている。

チェコの4大音楽家

ベドジフ・スメタナ
アントニーン・ドヴォジャーク
レオシュ・ヤナーチェク
ボフスラフ・マルチヌー


ベドジフ・スメタナBedrich Smetana

(ドイツ語名)フリードリヒ・スメタナ Friedrich Smetana
生誕地リトミシュル(1824年3月2日)
毎年夏、チェコの音楽祭がリトミシュルで開催される。
連作交響詩「我が祖国」第2曲「モルダウ」全6楽曲の中でも最も有名なもので、チェコ人の国民的音楽となっている。プラハの春音楽祭では「わが祖国」と国家の演奏で始まる。
プラハ市民会館 (スメタナホール):市庁舎の中のスメタナホルで春の音楽祭のメイン会場の一つとなる。
「スメタナ博物館」(プラハ)
国民劇場(プラハ)そのこけら落としでは、スメタナのオペラ『リブシェ』が上演された。
墓地ヴィシェフラットの民族墓地

アントニーン・レオポルト・ドヴォルザーク Antonin Leopold Dvorak

生誕地:ネラホゼヴェス、プラハの北約30km 1841年9月8日生誕
鉄道ファンとしても知られる。1877年以降プラハ本駅近くに居住していた。
2007年現在、「アントニン・ドヴォルザーク」号という特急列車が存在する(オーストリアのウィーンと、チェコのプラハを結ぶ)。
ドヴォルザーク博物館 Dvorak Museum プラハ市内。
ドヴォルザーク・ホール:プラハにある音楽公会堂ルドルフィヌム Rudolfinum 内。
オロモウツ:毎年国際音楽フェスティバルドヴォジャークを開催。オロモウツでドヴォルザークは主に1888年から98年にかけて活躍していた。
墓地:ヴィシェフラット民族墓地 1904年5月1日没

レオシュ・ヤナーチェク Leos Janacek

モラヴァ民謡の愛好家
生誕地:フクヴァルディHukvaldyフクヴァルディ城 モラヴィア北部ラシュスコ地方 1854年7月3日誕生
フクヴァルディ城:毎年7月に国際音楽フェスティヴァル ヤナーチェク開催。
フクヴァルディ:ヤナーチェク記念館がある。(晩年67歳に購入した別荘)
村の裏山には”女狐像”がある。(オペラ「利口な女狐の物語」の主人公ビストロウシュカ像)
隣村プシーボル(Pribor)にはフロイトの生家と記念館がある。
墓地:ブルノ中央墓地 Central Cemetery, Brno 1928年8月12日没

ボフスラフ・マルチヌー Bohuslav Martinu

生誕地:ポリチカ Policka ブルノの北北西約60キロ、ボヘミアとモラヴィアの境界付近の小さな村 1890年12月8日
墓地:ポリチカの聖ミハエル墓地の墓 墓碑「われ、故郷にあり」1959年8月28日没

マリオネットとチェコ・アニメ

マリオネットによる人形劇が盛んな国として知られ、首都プラハには国立マリオネット劇場やマリオネット博物館があるほか、プラハ芸術アカデミーには人形劇学科まで存在する。元々は17世紀に西欧から伝えられたもので、オーストリア・ハプスブルク帝国の支配下にあった時代、人々はチェコ語で話すことを禁じられ、ドイツ語が強制されていたが、唯一母国語の使用が認められていたのが人形劇であった。こういう伝統もあってか、チェコは人形アニメーション作品で知られる。言葉なくしても伝わる繊細かつ多彩な表現方法を自在に用いたチェコの人形アニメは世界的に評価も高い。
土産物としてもマリオネットは人気があり、劇場だけでなく、プラハ市内にはマリオネット専門店が数多くある。

芸 術

ダビッド・チェルニー David Cerny

ブラックユーモア溢れる話題作を創作する話題のチェコ現代アート界の気鋭の若手彫刻家。

代表作
フソヴァー通りの片手ぶら下がり男
旧市街のHusova通りから南へ歩き、ベトレム広場へ抜ける直前。

テレビ塔(Televizni vez Zizkov)ジシュコフ(Žižkov)の丘の上に立つ。
塔へよじ登る10体の巨大な赤ちゃん Babies
最寄駅:地下鉄A線Jiriho z Podebrad駅。

ルツェルナ・パッサージュ内の逆さ馬にまたがる聖ヴァーツラフ像
Vaclavske namesti 38, Vodickova 36, Stepanska 61番の3ケ所よりパッサージュへアクセスできる。

アトリエ兼ライヴハウスMeet Factoryの仕掛け人の一人としても知られる、

アルフォンス・マリア・ミュシャ Alfons Maria Mucha

生誕地:イヴァンチツェIvancice モラヴィア地方ブルーノ近郊  1860年7月24日
プラハ国立美術館ヴェレトゥルジュニー宮殿:「スラヴ叙事詩」大作20点の油彩画公開展示。
ミュシャ美術館:プラハ市内 主にポスター時代の作品が展示。
聖ヴィート大聖堂(プラハ城内):晩年のミュシャが手がけた、36枚のステンドグラスが輝く。
ズビロフ城Zbiroh:プラハから1時間にある
墓地:ヴィシェフラッド墓地Vysehradsky Hrbitov、聖ペテロ聖パウロ教会 1939年7月14日(満78歳没)

ミュシャは、ウィーンやミュンヘンを経て、27歳でパリに渡り絵画を学ぶ。
なかなか才能を発揮する機会に恵まれなく、本の挿絵のような地味な仕事をしていた。

ミュシャが34歳の時に、女優サラ・ベルナールが1895年の新春公演のための主演の舞台「ジスモンダ」のポスターを制作するアーティストを探していた。そして、ミュシャに声がかかり、その作成を手がけることになった。完成したポスターがパリ中に貼り出されると、話題となり一夜にしてミュシャは有名になってしまい、華麗な変身を遂げることとなった。以後、祖国に帰るまでのおよそ25年間、ミュシャはパリのアートシーンに君臨する。

彼は故郷チェコや自身のルーツであるスラヴ民族の歴史と運命に深い思いを抱く熱烈なナショナリストだった。
彼はその歴史を連作にして残そうと計画する。その資金集めにアメリカにわたりスポンサー探しをすることにした。

1904年、アメリカにわたり、スポンサー探しをするも、なかなかうまくいかず、長い間の苦労を重ねる。1909年になってようやく、富豪チャールズ・クレーンから金銭的な援助を受けることに成功した。
1910年、ミュシャは故国チェコに帰国した。それは彼が50歳で、第一次大戦の勃発(1914年)の直前であった。
長らくオーストリア・ハプスブルク帝国の支配下にあった祖国の復興に尽くし、貧しく恵まれない人々のためのポスターや、新生チェコの切手、紙幣などのデザインをノーギャラで引き受けたのもその表われだった。

晩年の約16年間を「スラヴ叙事詩」(1912-1926年)の制作に取り掛かる。
その制作のために、プラハから1時間にあるズビロフ城を借り受け、そこに家族ともども暮らすこととなる。ズビロフ城の中の大広間がアトリエとなっていた。
「スラヴ叙事詩」は、およそ縦6メートル、横8メートルにも及ぶ巨大なカンバスに描かれた20点の油彩画で、古代から近代に至るスラヴ民族の苦難と栄光の歴史を映し出す壮大なスペクタクルである。

ミュシャはパリ時代から、制作にいつもモデルを使い、時には写真撮影をしていた。
「スラヴ叙事詩」に描かれた生命感に溢れた人物のモデルたちも写真を撮ってそれを大きなキャンバスに忠実に描いたとみられる。

1928年:「スラヴ叙事詩」の全作品 20 点が、ミュシャとチャールズ・クレインによってチェコ国民とプラハ市に正式に贈呈され、プラハ市のヴェレトルジェニー宮殿(見本市会館)で展示される。
1933年、一時的に展示されるも、その後 30 年近く保管状態になる。

1939年、ナチス・ドイツがチェコに侵攻、ミュシャは愛国主義者として、ゲシュタポに逮捕され、プラハ市内にあったゲシュタポ本部内の牢獄で、厳しく尋問され、肉体的にも精神的にも大きなショックを受けたミュシャは、釈放のわずか4ヶ月後に78歳の生涯を閉じる。

ズビロフ城はその後ナチスが支配した大戦中、この城は見張りの砦として軍事利用された。戦後共産主義時代は、城は無残に打ち捨てられたが、チェコの自由化後、20世紀に入り修復され、現在は、高級ホテルとして再生している。

20点の大作「スラヴ叙事詩」は、1960年代以降、モラヴィアのモラフスキー・クルムロフ城にて夏期のみ公開されてはいたものの、ほとんど人の目に触れることはなかった。
その幻の傑作が、80年以上の時を経て2012年5月、ついにプラハ国立美術館ヴェレトゥルジュニー宮殿(見本市宮殿)にて全作品が公開展示されることとなった。

プラハが生んだ作家

フランツ・カフカ










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