ザールルイ Saarlouis

ザールラント州
人口:約38,000人

概要

フランスから約20分、ルクセンブルクから約40分と距離が近く、交通の要所になっている。州都ザールブリュッケンの中央駅より電車で14分-20分の距離にある。

ザール川左岸にあり、1680年にフランス王ルイ14世の命を受けたフランス人技師ヴォーバンによってフランスの要塞都市として建設された。
ルイ14世は、みずからの名を取って町を命名した。
市の紋章にはブルボン王家の家紋のユリがあしらわれている

市街地にある案内看板には、要塞都市として築かれた建設当時の様子が描かれている。
現在の地図には当時、六角形だった都市の面影が見られる。フランスによって築かれた城塞の一部は、1887年以降、プロイセンによって破壊されたり埋められてしまった。
しかし、砲郭、兵舎、司令官室のあるグローサー・マルクト広場、ヴォーバン島、ミシェル・ネイを記念した元半月塁などが、今日も見られる。

ザールルイのその後の街の歴史はザールラント州州都ザールブリュッケンと同じで、フランスとドイツの間を行き来する。
フランス革命時から王の名を冠した名を革命政府が嫌い、ザール・リーブル(Sarre-Libre)と改名されたが、1810年のパリ条約により再びザールルイの名に戻された。
またドイツ第三帝国時代にはザールラウテルンとなったが、1945年にはザールルイという名に戻された。

第一次世界大戦後、フランス軍がサールルイを占領した。ザール地方は、15年に渡り国際連盟の管理地域となった。
1933年、相当な人数の反ナチス・ドイツ人がザールへ逃げ込んだ。そこはドイツでありながら、唯一第三帝国の支配が及ばない地域であった。その結果、反ナチス・グループは、ヒトラーのドイツ支配と同様の長い期間、国際連盟保護下のザールラントで盛んに活動を続けたのである。
15年間の管理時代が終わり、フランスへの帰属の是非を問う住民投票が1935年1月13日にザールラントで行われた。その結果、90.3%がドイツ帰属に賛成した。

第二次世界大戦後、再度フランスに占領された。
1955年に住民投票が行われ、ザールラント州住民の多くがフランス支配からの解放、そしてドイツ連邦共和国への再編入を決定した。

ザールルイは、ザール炭田に近接していて鉄鋼生産、鉱物採掘業を中心として発達。ナポレオン1世時代には,重要な武器製造地であった。
現在は、市民の多くが自動車産業に従事し、郊外のローダーベルクにあるフォード・モーターの生産工場がその中心である。
さらに近年、市域は右岸にも拡大し、食品加工業などが進出している。

観光としては、旧市街、グローサー・マルクト広場を中心にルートヴィヒ教会(1685年建設)、フランス軍第6兵舎(1866-1869年建設、全長135メートル、現市立博物館、図書館、古文書館など)、フランス軍元帥ミシェル・ネイの生家(現在はレストラン)などが見どころとなる。

ザールルイへのアクセス

フランクフルト中央駅Frankfurt(Main)Hbfから
特急ICEでマンハイムMannheim Hbfまで35分。
マンハイムで乗り換えてザールルイSaarlouis Hbfまで快速列車REで2時間。
ほぼ30分間隔















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