フランクフルト・アン・デア・オーダー Frankfurt an der Oder
ブランデンブルク州
人口:約57,000人
概要
「オーダー河畔のフランクフルト」は、かつてのプロイセン王国の中央に位置し、13世紀から19世紀まで、オーダー(オーデル)川をはさんでヨーロッパの東西南北を結ぶ交易都市として栄えた。
オーデル川は川幅の広い大きな川で中洲がある。この辺りは川が浅いので渡渉地になっていたのでフランクフルト(浅瀬)の名の由来だ。
1253年には都市権を得、15世紀には一時ハンザ同盟に加盟したこともある。
1945年、第二次世界大戦末期には第三帝国の首都ベルリンに進撃するソ連赤軍に対するドイツ国防軍の要塞となり、フランクフルト (オーデル)は戦場となった。
戦後のドイツ国境はオーデル・ナイセ線とされたため、町は分断され川の東岸にあったダムフォアシュタット地区 Dammvorstadt は、ポーランド領とされ、スウビツェ市となった。
戦後はソ連占領地域となり、市内にはソ連の兵士が独軍の戦車を踏みつけている像や、ソ連の兵器が展示してある。
河岸には大きな鎮魂の鐘が架かっている。
東西分断の時代、東ドイツの街々は戦火で破壊されたままで荒れ果てていたが、少しずつ再建はして、昔の姿を取り戻してきていたが、働く場所はなく、職を求めて街を出て行く。このフランクフルトも同様で、ドイツ再統一後もこの地域の経済は停滞し、失業率も高まり、町はさらに疲弊し人口が大きく減少していった。
現在のフランクフルト (オーデル)は対岸のポーランドとの交流や共同プロジェクトが盛んである。ポーランドのEU加盟(2004年)にともないシェンゲン協定がポーランド国境に実施され、国境検問所は撤廃され往来は自由となっている。
ポーランドはEUには加盟しているが通貨はユーロではない。そこでポーランドからドイツに買い物に行くときはここでユーロに両替していくこととなる。
オーデル川をまたぐ大橋シュタット・ブリュッケは、車も人も自由に往来している。
ポーランド側に橋のたもとに両替所もある。もっとも、ポーランドの通貨はドイツでは使えないがユーロはポーランドで使える。
1991年にヴィアドリーナ欧州大学が復活し、若者も増えつつある。
1506年、ブランデンブルク公国の主要大学として創立、1811年閉鎖されていた。
欧州という名がついているが実際欧州各国から多くの留学生が来ているという。
ヴィアドリーナはオーデル川のラテン名だという。
劇作家クライスト、宗教改革の活動家ミュンツァー、バッハの息子エマニュエル・バッハがかってのヴィアドリーナ大学で学んでいる。
アクセス
ポーランド(ワルシャワ)とドイツ(ベルリンなど)を鉄道やバスで旅行する場合にはここを通過するが、ここだけを訪れることはほとんどないだろう。
取り立てて魅力的な見どころもない。
ベルリン中央駅からフランクフルト・アン・デア・オーダーFrankfurt(Oder)まで普通列車REで約1時間15分、ほぼ30分間隔。
ワルシャワ行き特急ECでも1時間。
駅からシュタット・ブリュッケ(橋)まではタクシーで行く方がいい。
市街地
マルクト広場
広場には市庁舎が建つ。
14世紀の建物で、建物の一部は青少年芸術美術館になっている。
インフォメーションセンターもここにある。
広場の裏には聖マリエン教会がある。
中は祭壇も椅子も装飾もなくがらんとしている。教会として機能していない。
市街唯一の高層建築オーダートゥルムが目立つ。
見どころ
フリーデンス教会
1226年建造。市内で最も高い塔がどこからでも目に入る。
内部には木の十字架だけの祭壇。
教会には不向きに見える風景画が架かっている。
クライスト博物館
オーデル川の近くにある。
ハインリヒ・フォン・クライストはドイツの劇作家、ジャーナリスト。
1777年、この地の名門の家柄に生まれた。
代々軍人の家柄でクライストも一時軍隊に入ったが辞め故郷の大学に学んだあとドレスデン、ベルリンで文筆活動を行う。社会に認められない不遇と生活苦のうちに1811年ベルリンで自殺。幾つかの戯曲と短編集を遺している。
主な作は戯曲「ペンテジレーア」、「アンフィトリオン」、「ハイルブロンのケートヒェン」、「壊れ甕」。
聖十字架教会
レンネ公園の先に建っている。