台湾の歴史

大航海時代の台湾の発見

1544年 アジア進出を図っていたポルトガルは、インドのゴアを占領した後、マラッカ、マカオと占領しながら北上し、日本に向かう途中で台湾が発見する。
緑に覆われた美しい島にの風景を目にしたポルトガル人船員が、「Ilha Formosa(麗しの島)」と声を上げたと言う。Ilhaは島、Formosaは美しいという意味だ。

ヨーロッパ諸国による支配から独立へ

1622年 オランダ東インド会社は明朝領有下の澎湖列島を占領。
オランダが「東インド会社」を設立、現在のジャカルタを占領し、中国大陸や日本との貿易の中継基地と考えて澎湖列島の進出となった。
その後、明王朝との合意で、オランダは澎湖列島から撤退する代わりに、台湾占領を許された。
1624年 オランダ東インド会社、現在の台南市周辺を占拠、地域を制圧して要塞ゼーランジャ城(現在の安平古堡)を築いた。
その後、プロビンシャ城(現在の赤嵌樓)を構築。東インド会社の事務所、宿舎などの役割も果たした。
オランダ東インド会社はジャワから日本などへの中継地点として利用した。
また、オランダは福建省、広東省沿岸部から大量の漢民族を移住させ、サトウキビの栽培の経営を始めた。
先住民たちは、どんどん山間部の方へと押しやられて行った。そんな先住民が外来者を「ターヤン」と言っていたのが訛って、やがて変化し「タイワン」となった。
もともと「タイワン」とは、今の台南附近に分布していた先住民シラヤ族が外から来た者(外来者)や客を「ターヤン」と言っていたのが訛って変化して「タイワン」となった。
やがて島を示す固有名詞となり、「台湾」の字が使われるようになった。
1626年 スペインは台湾北部に進出し、基隆、淡水を占拠した。
スペインはフィリピンから日本などへの中継地点として利用した。
1635年 あらゆるものに税金を課すなど台湾の先住民には経験のないオランダ人のやり方は、まさに植民地支配と等しく、先住民の抵抗は強くなる一方だった。
武力を使うオランダの支配には、多くの先住民が強い抵抗を持っていた。多くの抵抗と蜂起は数多くあった。
「麻豆事件」と「蕭瓏事件」は抵抗する先住民に対する最大の殺戮で、先住民はなすすべもなく、オランダ人の支配は不動ものとなっていった。
1642年 スペインはオランダの攻撃によって台湾から退却した。
1661年4月 清朝との戦いに負けた明朝のもとにいた鄭成功は、艦船を率い、澎湖列島を占領、その後オランダの城塞を攻略、
鄭成功の父は鄭芝龍という強い海賊で、長崎県平戸に一時居住していたがあり、田川という姓の日本人女性と結婚し、1624年に長男の鄭森を出産、これが後の鄭成功である。
鄭成功は台湾を明朝の国とし、清朝への戦いの拠点とした。
1683年 鄭成功の死亡後、三代にわたる鄭氏政権は弱体化し、23年間の政権は幕を閉じる。
1684年 台湾は清朝の福建省の統治下に編入した。
編入後、福建省、広東省から多くの漢民族が移住し、開発されていった。
約2世紀をかけて支配地域は拡大し、19世紀に入ると台北付近が本格的に開発されるまでになった。
台湾への移民には気性の荒い海賊や無法者が多く、原住民との間に、台湾では武力蜂起が相次いだ。マラリアなどの風土病し蔓延していた。また清朝は台湾に自国民が定住することを抑制するために女性の渡航を禁止したために、台湾には漢民族の女性が少なかった。そのために漢民族と平地に住む原住民との混血が急速に進み、漢族、現在の「台湾人」と呼ばれる漢民族系移住民の人口は増加、先住民はますます少数民族となっていった。
1856年 広州で起こったアロー号事件に敗れた清が天津条約を締結したことにより、台湾の淡水、基隆港、安平港、打狗港(現在の高雄港)を欧州列強に開港されることとなった。
1871年 宮古島島民遭難事件(牡丹社事件)が起こる。
これは、宮古、八重山から琉球の首里王府に年貢を納めて帰途についた船4隻のうち、宮古の船の1隻66人が、台湾近海で遭難し、台湾南部に漂着した。
台湾上陸後に山中をさまよった者のうち54名が、台湾原住民によって殺害され、残る12名が命からがら帰国するという事件である。
1874年 牡丹社事件に対し、日本政府は清朝に厳重に抗議したが、台湾の原住民は「化外の民(国家統治の及ばない者)」として責任を回避した。
そのため、日本は台湾出兵が行なわれ、台湾南部の恒春に上陸、やがて南部の一一部を占領した。同年10月、大久保利通が全権として清国政府と和解し、日本は台湾から撤退するという「北京専約」が結ばれた。
1894年8月 朝鮮の独立を巡る内乱をきっかけに、日清戦争が勃発。
1895年 清朝が大日本帝国と戦った日清戦争に敗北したため、4月17日に締結された下関条約(馬關條約)に基づいて台湾は清朝から大日本帝国に割譲され、それに伴い台湾省は設置から約10年という短期間で廃止された。これ以降、台湾は大日本帝国の外地として台湾総督府の統治下に置かれることとなる。

日本による統治時代

1895年 日本への割譲反対を唱える漢人により蜂起し、日本による台湾総督府は当初、手を焼いていた。
初代から3代の総督は漢人の過激なゲリラとの戦いが続いた。さらに、先住民による抵抗も発生したが、間もなく収束していった。
1896年 三一法が公布され台湾総督府を中心とする日本の統治体制が確立される。
日本政府は台湾総督府の対応には、いたって消極的であった。
そんな中、後藤新平が精力的にインフラの整備の着手。
その後は台湾の産業、日本式の教育施設の導入、産業の工業化等に力を入れた。
当時の台湾は衛生状態が非常に悪く、多種の疫病が蔓延していた。特に飲み水の病原菌汚染が酷く、「台湾の水を5日間飲み続けると死ぬ」とまで言われていた。
そこで後藤新平が近代的な上下水道を完成させる。
1899年 台湾銀行が開業される。
台湾医学校が設立され、1919年までには各地で中学校、高等学校、職業学校が続々と開校した。
1900年 台湾製糖が創立される。
1911年 中国の四川省で辛亥革命が勃発した。
1912年 「中国革命の父」といわれる孫文は、中国の南京で臨時大統領となり、中華民国(THE REPUBLIC OF CHINA)の成立を宣言する。
中華民国は、政治腐敗した清朝に代わり、三民主義(中国人の主権の回復、人民主権による共和国の樹立、民衆の生活の安定)を目指した。
台湾では、1912年を中華民国元年と称し、一般的には民国元年と記している。
当時の台湾は衛生状態が非常に悪く、多種の疫病が蔓延していた。特に飲み水の病原菌汚染が酷く、「台湾の水を5日間飲み続けると死ぬ」とまで言われていた。
そこで後藤新平が近代的な上下水道を完成させた。
1912年 総督府の着工、1919年に完成
1917年 基隆から高雄までの台湾縦貫鉄道幹線が開通。
水利灌漑事業用の整備も進み、耕地面積が拡大、米、砂糖の生産も飛躍的に増加、貿易高も増大、人口も360万に達した。
1920年 台湾南部の乾燥と塩害対策として、八田與一が烏山頭ダムと用水路を建設に着工。完成は1930年。
1923年 皇太子(後の昭和天皇)が台湾を視察された。
1928年 台北帝国大学設立される。
1930年10月27日 霧社事件発生
台湾中部の山間部にある霧社で、山地系住民による日本人襲撃事件。
この事件は、日本の台湾統治が軌道に乗っていたが、一部の先住民には、日本統治への不満があった。
この日の朝、霧社公学校の運動会で、日本人や漢族系台湾人の父兄や子どもが集まっていた。開会式の国旗掲揚を合図に武装した200人の山地系住民が乱入し、日本人のみを全員殺傷、さらに警察所、役所、官舎が次々に占領され、この鎮圧に約50日かかった。
1942年4月 台湾人にも徴兵が始まる。
日本政府は台湾人には兵役の義務を課さなかったが、兵員不足の事態になると、「志願兵」の名のもとに1942年4月から徴兵が始まる。
1943年 6年制義務教育が実施された。
児童の就学率は92.5%とという、植民地下では異例の高さ保ち、台湾では格段に教育の普及に力が注がれいた。
1945年 第二次世界大戦が終了した。
1945年9月2日 東京湾の米国戦艦ミズーリ号において、日本国全権は降伏文書に署名。
日本は戦争に負け、ポツダム宣言を受諾し、台湾及び付属諸島の所有権を放棄。
中国大陸にある蒋介石の支配下に置かれ、日本に代わり台湾の実権を握った。
10月17日までに、米国の軍艦で国民党軍23,000人ほどが基隆港に上陸、同日のうちに台北へ進軍した。
上陸してきた国民党軍兵士は戦勝国だった国民党政権は兵士とはとても考えられないほどひどく、台湾人は失望した。
1945年10月25日 行政長官に任命されていた陳儀がラジオ放送で台湾が正式に中国の領土となったという声明を発表した。
台湾人の意思に関わらず、この日から台湾人の国籍は「中華民国」となり、「本省人」と称され、中国から新たに渡ってきた人を「外省人」と称して区別するようになった。
この日から台湾人の国籍は「中華民国」となり、「本省人」と称され、中国から新たに渡ってきた人を「外省人」と称して区別するようになった。

国民党の支配

1947年 2・28事件の勃発。
台湾を統治する行政機関を設置したが、要職は大陸からの「外省人」が独占し、さらに行政機関や政府軍の腐敗が激しかったため、それまで台湾にいた台湾人である「本省人」が反発し、1947年2月28日に本省人の民衆が蜂起する事件が起きた。
蒋介石は徹底的に弾圧して台湾の独立運動を押えられた。国民党の発表によっても、事件後1ヶ月に殺された台湾人は28,000に上るとされ、一説には、11万人もの台湾人を虐殺したという。
1949年 「2・28事件」の過剰な殺戮と鎮圧は国際社会の痛烈な批判を浴びる。
国共内戦で劣勢にあり米国の援助が必要だった国民党は、米国は駐中国大使へ抗議し、蒋介石は米国の意向を無視できず、4月22日、陳儀を免職、5月1日に南京に召還づることとなった。
1949年 中国共産党との内戦によって中国大陸を追われた国民党は、蒋介石総統とともに、台湾に亡命。
中国では、中国共産党の中華人民共和国が成立し、毛沢東が主席に就任した。
国民党は、蒋介石が国共内戦で敗れた兵隊と国民政府を引き連れて台湾に移住してきたため、これ以降は事実上蒋介石・国民政府による台湾の直接統治が行なわれることとなった。
蒋介石と一緒に移住してきた国民党軍兵士の質があまりに悪く、略奪、役人の汚職などの腐敗ぶりがあまりにひどかった。台湾人これらの支配者に失望し始めた。
こういう中国本土から移住してきた連中に比べ、日本人の方がまだましだったと、反日的な台湾人からも中国人の貪欲で汚い態度に閉口していた。
にもかかわらず、中国からの移住をする人が絶えなず、港と河口を封鎖、海岸線を管制下に置き、台湾への難民移住を止めた。
1949年5月20日 台湾全土に戒厳令を実施。この戒厳令は1987年7月15日に解除されるまで、40年の間実施された。
1950年6月 朝鮮戦争勃発。米国の当時の大統領トルーマンは、台湾海峡に米国艦隊を派遣し、互いが武力侵攻することを阻止した。
これにより、台湾は米国の軍事保護下に置かれ、西側陣営となる。
国民党政権は中国共産党の「反乱」を口実に台湾での強権政治を正当化した。
これにより、蒋介石総統と次の蒋経国総統では一党独裁体制が築かれて行った。
戦争時や国の事変に際し、深刻なインフレに見舞われる。
平時の法を停止して、行政権・司法権の行使を軍司令官に委ねる事となる。
1953年 台湾の第1期経済建設計画が始まった。
大規模開発は必須だった。鉄道・港湾施設の建設など、十大建設が実施され、台湾経済は軽工業から重工業へシフトしていく。
1958年 中国軍と砲撃戦を交えた台湾海峡危機発生、国民党は金門島と馬祖島を占拠
大陸を完全に掌握した共産党は、金門島攻撃に着手した。しかし海軍及び空軍兵力に劣る人民解放軍は有力な制海・制空権を掌握できず、要塞に立てこもる国民党軍や、台湾海峡を航行するアメリカ第七艦隊を打破することはできず、共産党も金門侵攻を放棄。
アメリカは台湾を防衛する意志を固め、蒋介石に種々の援助を与えた。
1961年 ベトナム戦争が勃発し、アメリカは台湾から軍需物資を調達し、その代償として米ドルが大量に台湾経済に流入したことで、台湾経済は高度成長期に入ることになる。
国民党独裁が続き、台湾の民主化運動は日本、後にアメリカに移住した台湾人を中心に展開されることとなった。
1960年 台湾横断公路(台湾島東西横断道路)が開通。
1967年 台北市が行政院の直轄市になる。

国際的孤立化

1971年 対立する大陸の中華人民共和国に国連代表権が与えられたため、中華民国としての台湾は国連から脱退した。
1973年 日本との国交を断交をした。
1975年 蒋介石総統が死去した。
1976年 毛沢東党主席が死去した。
商用での海外渡航が自由化された。
1979年 米中国交が樹立した。同時に、アメリカは台湾との国交を断交した。
海外観光旅行が自由化された。
1980年 「新竹科学工業園区」が開始された。
台湾はIMF、世界銀行から脱退した。

民主化の波

1985年 当時のアメリカのレーガン米大統領が台湾の民主化を勧告した。
1986年 民主進歩党(民進党)が野党として結成された。
民進党は戒厳令の廃止を唱えた。
1987年 戒厳令が解除された。
変動相場制でない台湾ドルは大幅に切り上げられ、台湾輸出製品の競争力が一時弱まった。
1988年 蒋介石の息子である蒋経国総統が死去した。
続く国民党主席には、李登輝(りとうき)氏が選ばれた。台湾史上、初めての台湾人総統である。
李登輝は台湾の民主化を推し進め、報道規制が解除された。
李登輝の政策に外省人と本省人との対立などがあったが、国民党はそれを強引に押さえつけ、普通語教育、中華文化の推奨などを通して台湾の中華化を目指した。
親日的である李登輝は、それまで日本を敵視していて、日本統治時代のことがほとんど台湾の人たちに伝えられていなかったのを、公正に歴史的事実を教育の中で伝えていくように推し進めた。
これにより、例えば八田與一の烏山頭ダム建設などの功績も知られるようになり、現在、中学の教科書にも掲載背れるに至っている。
1990年 李登輝総統再選。
タイ・フィリピン・インドネシア・マレーシアからの労働者受け入れを始まる。
1991年 台湾のインターネット接続が始まる。
1993年 日本語放送が全面解禁になる。

国家としての活動

1994年 李登輝総統は東南アジアを非公式に訪問。
1995年 李登輝総統はアメリカを訪問。

ゆれ動く台湾

1996年2月 中国は台湾に向けての軍事演習によるミサイル攻撃を行った。(3月の民選的な総統直接選挙を牽制するため)
1996年3月 李登輝は台湾初の民選総統として総統に再就任した。
この間の中台関係の緊張が影響し、台湾経済は一時後退した。
77月、香港が中国に返還された後、中国の江沢民国家主席は、一国二制度による中台(中国・台湾)統一を望むと演説。
それに対し、台湾側は対中投資の監視を強化し牽制した。
1999年9月21日 台湾中部大地震(M7.7規模の直下型大地震)が発生。死者2399人、負傷者1万人の大惨事となった。
2000年 総統選には出馬せず、台湾の指導者を選ぶ総統選挙で民進党の陳水扁が総統に選出され、台湾生まれで台湾育ちの総統が実現した。陳水扁は台湾の独立路線を採用したため統一派の国民党とたびたび衝突し、政局は混迷を続けた。
2004年 陳水扁、辛うじて過半数を獲得して再選。
2008年5月 国民党は馬英九台北市長を候補者に擁立し総統選挙に臨み、政権奪取を目標に掲げ当選し、共産党との協調を交流拡大を掲げる国民党が8年ぶりに政権を奪還した。
それまでの両岸関係の悪化を招いた陳水扁政権に対し、共産党中国との協調と交流の拡大を政策方針とする施政転換が行われるようになり、両国の旅行者の往来も活発化し、台湾資本による中国本土への進出も盛んになってきた。
2012年1月 馬総統が民進党の蔡氏を破り、再選。
2016年1月 中国との関係に慎重な最大野党・民進党の蔡英文主席が総統選挙で圧勝し、台湾史上初の女性の総統が誕生することになった。






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