ウズベキスタンの文化・伝統芸能・音楽
ウズベキスタンの伝統音楽
ウズベキスタンの音楽は中東の音楽に共通点があり、複雑なリズムと拍子が特徴として挙げられる[1]。ウズベキスタンにおける音楽の歴史は古く、歴史的な経緯から様々なスタイルの音楽や楽器が入り込んできたため、ウズベキスタンは中央アジアにおいて最も音楽的に多様性のある国と考えられている。
ウズベキスタンは長く豊かな音楽の歴史を持つ。
中央アジアの伝統音楽であるシャシュマカームは16世紀にブハラやサマルカンドといった都市で創始されたものと考えられている。「シャシュマカーム」という語は「6つのマカーム」を意味し、6つの異なる旋法を用いたペルシア伝統音楽に似た音楽構造となっている。スーフィズム詩人が吟じる間は音楽が中断される。詩吟は通常低音域から始まり終盤に向けて次第に高音域へと上がり、再び最初の低音域へと下がるスタイルを取る。
19世紀にトルキスタンがロシア帝国に占領されトルキスタン総督府が置かれると、トルキスタンの音楽を録音する試みが行われた。ロシアの音楽家はトルキスタンに記譜法を導入することでこの音楽を保存する助けを行った。
1950年代、ソビエト連邦によりラジオ局に伝統音楽禁止令が出されたことでウズベク人の民族音楽はさほど人気がなくなっていった。しかしこの禁止令で民族音楽が廃れたわけではなく、禁止令下においても民族音楽を演奏する音楽グループは活動を続け、個人の間で広まっていった。
1991年にウズベキスタンがソビエト連邦から独立を果たすと、ウズベキスタンの伝統音楽に対する関心が高まり、ウズベキスタンのテレビやラジオ局では伝統音楽を放送するようになった。
近年では、ユルドゥス・ウスマノヴァやセヴァラ・ナザルハンが伝統音楽に現代的なリズムや管弦楽法を取り入れることで世界的にも注目されるようになった。2000年代後半にはアザドベク・ナザルベコフが伝統音楽に現代音楽を組み合わせた曲を歌う歌手として登場した。(出典:wikipedia)
ウズベキスタンの伝統楽器
ウズベキスタンでは多くの種類の楽器が発見されている。伝統楽器には以下のようなものがある。
弦楽器
ドゥタール Dutar
リュートに似た二弦楽器、イラン発祥で、ドゥタール・アルトとドゥタール・バスがある。
ルバブ(ルボブ)Rubab
リュートに似た楽器、4-6張の金属やシルクの弦。
カシュカル・ルボブ、ルボブ・プリマ、アフゴン・ルボブがある。
ドンブラ Dombira
タンブール Tanbur
リュートに似た楽器
タール Tar
リュートに似た楽器
ウード Ud
リュートに似た楽器
ギジャクGidzhak
ヴァイオリンに似た擦弦楽器
ギジャック・バス
チェロに似た楽器
カーヌーン Qanun
ディルラボーDilrabo
ディルナヴォーDilnavo
サトーSato
チャング Chang
打弦楽器
吹奏楽器
カルナイKarnay
トランペットに似た楽器
ナーイ Nay
横吹きの6スロット開口部の笛
クシュナイ Qo'shnay (コシュナイ)
クラリネットに似た楽器
スルナイ Surnay
オーボエに似た楽器
スィビズガ Sibizga
チャン(グ)コブズ Changqobiz
打楽器
ダーイラ(ドイラ)Doira
タンバリンに似た楽器
ダヴール Dovul
ドラム
ナガラ(ノゴラ)Naqareh,Nagora
棒で叩いて音を出す小型の太鼓
カシク Qoshiq
バチ
ザング Zang
ブレスレット
ナヴォイ劇場 (日本兵が建てたオペラハウス)
Navoi Opera Theater
劇場の総床面積1万5000平方メートル、収容観客数は1400人で、舞台の広さは540平方メートルである。煉瓦作り3階建てのビザンチン風建築。
設計者はモスクワ・赤の広場の「レーニン廟」を設計したアレクセイ・シュシェフAlexey Viktorovich Shchusev。
ソ連は、レーニンによるロシア革命から30周年にあたる1947年11月までにこの劇場を建設することを決定して建築を進めていた。しかし、第二次世界大戦が始まったため、土台と一部の壁、柱などがつくられた状態で工事が止まっていた。そのため大戦後、捕虜として抑留していた旧日本軍兵士を労働力として活用し、革命30周年に間に合わせることを命題とし、建築作業に適した工兵457人の日本兵が強制的に派遣された。
8月15日、第二次世界大戦で日本は無条件降伏。
満州で投降した日本兵はソ連軍の捕虜となり、ソ連各地に送り込まれシベリアなどで森林伐採、道路・鉄道建設などの強制労働させられた。 その数合計60万人とも言われる。
ソ連共産党の威信を示すために、建設途中だったオペラハウス「ナボイ劇場」の建設を進めた。この劇場建設の任務は特殊業務であった。
劇場の完成も間近だったある日、一人の作業員が高所作業中に落下し即死。
監視にあたっていたソ連兵は、表沙汰にできないため、遺体は即座に撤去されていったが、翌朝事故現場にウズベキスタンの人々が死を悼み花をささげていた。
その2ヶ月後、ナボイ劇場は2年の時を経て1947年10月に完成した。
1966年4月26日午前5時23分にタシケントはマグニチュード5.2の直下型大地震に襲われた。
約240の政府系建物、700の商店・レストラン、約180の教育施設、250の工場、約8万の家が崩壊し、約10万人の人々が外に放り出され、街はほぼ全壊した。
そんな中、ナヴォイ劇場は何事もなかったように何ひとつ壊れることなく悠然と建ち続けていた。そしてそこは避難所としても活用された。
大地震で倒壊しなかったナヴォイ劇場の話は、瞬く間にウズベキスタン国内や隣接するキルギス、カザフスタン、トルクメニスタン、タジキスタンなどの中央アジア各国に伝わっていった。1991年に中央アジア各国がソ連から独立してから、ウズベキスタンをはじめ中央アジア各国は日本に対する親しみや信頼を深めて今日に至っている。
劇場の裏手の日本兵たちを称えるプレートがある。以前はウズベク語とロシア語、英語で「日本人捕虜が建てたものである」と書かれていた。
これをみた独立後大統領に就任したウズベキスタン大統領イスラム・カリモフ大統領は「ウズベクは日本と戦争をしたことがないし、ウズベクが日本人を捕虜にしたこともない」と指摘し、「彼らは恩人だ、間違っても「捕虜」と書くな」という指示があった。
そして1996年に新たなプレートに作り変えられた。「1945年から1946年にかけて極東から強制移送された数百名の日本国民が、このアリシェル・ナヴォーイ名称劇場の建設に参加し、その完成に貢献した。」とウズベク語、日本語、英語、ロシア語の順に刻まれている。
日本人で死亡したのは、劇場建設の高所作業に従事していた者の転落事故と外出時に列車に轢かれて死亡した2人。
この2人はタシケント抑留日本人墓地(公営ヤッカサライ墓地)に当時死亡した日本人と共に埋葬されている。