ポーランドの歴史
ポーランドの歴史年表
966年 | ピアスト王朝の成立。(建国),キリスト教を受容 |
1386年 | ヤギエウォ王朝の成立。欧州の大国として繁栄。 |
1573年 | 選挙王朝に移行し、地方の帰属が勢力を持つようになり、国力が低下。 |
1772年 | ロシア、プロイセン、オーストリアが第1次ポーランド分割を行い、国土の約4分の1が失われた。 |
1793年 | 第2次分割 |
1795年 | 隣接していたロシア、プロシア、オーストリアの三国による第3次分割で、ポーランド国家消滅。 第一次世界大戦が終了する1918年に独立するまでの123年間、ポーランドは世界地図から姿を消す。 |
1807年 | ポーランドに進攻したナポレオンは、フランスの傀儡国家ワルシャワ公国を建国してポーランドを再建した。 しかし、ナポレオンの敗北後、1815年のウィーン議定書に基づきワルシャワ公国は解体され、その4分の3をロシア皇帝の領土としたうえで、ロシア皇帝が国王を兼務するポーランド立憲王国を成立させた。 南部の都市クラクフとその周辺は、クラクフ共和国として一定の自治が容認された。西部はポズナン大公国としてプロイセンの支配下におかれた。 |
1918年 | 第一次世界大戦後、独立回復 |
1939年9月 | ナチス・ドイツによるポーランド侵攻。第2次世界大戦がはじまる。 ソ連によるポーランド東部に侵攻。ドイツとソ連により分割され、ポーランドは再び地図から消える。 ナチス・ドイツは占領地域アウシュビッツに強制収容所を作り、欧州各地のユダヤ人を狩り集め、て収監し、銃殺や毒殺、その数数百万人。 ソ連軍はポーランドの捕虜2万5千人をカチンの森や各地の収容所で銃殺。 |
1944年8月 | ソ連軍の呼びかけでワルシャワ市民が蜂起。 しかし、ソ連軍は裏切って進軍せず、20万以上のポーランド人がドイツ軍に殺される。そして、ワルシャワ市街地は徹底的に破壊された。 |
1945年7月 | 終戦後、ポーランドは再度独立を果たる。 国民統一臨時政府が成立された。 |
1947年 | ソ連の策略による選挙により共産勢力が大勝、社会主義政権誕生。 ソ連はポーランドの政策に大きな影響力を持ち、自国の軍隊「赤軍」をポーランドに駐在させた。 |
1948年 | ソ連の指導の下、ポーランド統一労働者党(共産党)を創り、事実上の一党独裁政体へ移行した。 ソ連の衛星国に組み込まれ、農業の集団化など、ソ連型の経済政策を次々に導入。 マルクス・レーニン主義の共産主義国家の成立となった。 |
1956年 | ソ連でフルシチョフによるスターリン批判が行われるとポーランドでも国民が動揺しポズナンで労働者の暴動が起る。 これを機に、ポーランド国内で暴動や民主主義運動が各地で頻発する。 |
1970年 | 賃金問題から発生したグダニスク暴動の責任を問われたゴムウカ共産党第一書記が失脚し、かわってエドヴァルト・ギエレク(Edward Gierek )が就任した。 ギエレクは、工場整備と食料輸入を行なう事で経済回復計画とし、西側諸国の主にアメリカと西ドイツから莫大な借金をした。 一時期、経済成長したが、無計画な経済政策は急激で膨大な食品価格のインフレをまねき、これにより暴力的なプロテストが各地に広まる。 |
1980年 | 政府による食肉価格の値上げが発端となり、全国的な労働者のストライキが起こった。 労働者による自主的かつ全国規模の労働組合「連帯」が結成、ワレサを指導者に選び民主化運動を始めた。 |
1981年12月 | 戒厳令が敷かれる。夜間外出禁止令、国境封鎖、空港閉鎖、電話回線の遮断、政府による郵便物内容検査などが執行。 |
1989年9月 | ソ連の体制崩壊により、非社会主義政権の成立。憲法が改正され、国名がポーランド共和国に変更された。 |
1989年12月29日 | 憲法が改正されて共産主義国家における指導的役割が否定される。 国名はポーランド人民共和国からポーランド共和国へと変更される。 |
1999年3月 | 北大西洋条約機構NATO加盟 |
2004年5月 | 欧州連合EU加盟 |