(フィレンツェ旧市街・フォトギャラリーPhoto) |
フィレンツェ Firenze(英語:フローレンス Florence) (トスカーナ州 州都) ローマから277km、ミラノから298km、ボローニャから105km 人口:約40万人 ●フィレンツェというと必ずといっていいほど「花の都」という修飾語がつく。町に花がいっぱいあるわけでもなく、花の集散地でもない。14〜16世紀に繁栄を極め、この町の一大富豪となって実質上ここを支配下に治めていたメディチ家がスポンサーになって多くの芸術家が育った。彼らの手で次々に建造物ができ、彫刻・絵画が生み出されていき、町全体が華やかで美術館のようになっていったことを賞賛してつけられた修飾語である。 ●この町の旧市街全体を知るために格好な場所がアルノ川河畔から上がるミケランジェロの丘である。さらに大きなフィレンツェを眺望したい場合には反対側の少し離れたフィエーゾレの丘に上がるといい。 ●フィレンツェの旧市街地は端から端まで歩いても20分足らずで道は狭い。そのため大型観光バスの乗り入れはできないので、ツアーは城壁のあったところの環状道路沿いに駐車しての徒歩見学となる。こぢんまりした市街に夏期は世界中の観光客が訪れるため、毎日が祭りかイベントのような賑わいを見せているし、観光ルートに入っている美術館などへは入場に大変な時間を要する。 フィレンツェの歴史 ●トスカーナ地方の豊かな土地を所有していた地主たちが自分の所領で生産したものを互いに物々交換したり売ったりする集散地としての場所、つまり「市場」が必要となり、やがてその取引が頻繁になって市場周辺に常駐する人たちが増えて町ができあがった。中世都市はこのようにしてあちこちに生まれ、やがて遠くとの交易も盛んになっていく。フィレンツェはアルノ川を利用して河口のピサから船出し(こうしてピサは4大海洋国家の一つにまでなっていく)、地中海の東方への交易を拡大していった。そんな交易が盛んになっていくと学問・文化の面でも新しい風が入り込んでくるのは当然で、古代ギリシャ文明の影響がフィレンツェに新しい考え方を起こすこととなる。 ●人々は「神」の下に生きているという考えがどんどんエスカレートして、建築物もゴシック建築に見られるように「神」への崇拝を象徴するように天高くそびえるようなものになっていった。海洋交易が盛んになり、人々が宗教的支配を受ける前のギリシャ建築を目にするようになると、建築はやはり「人間」が最も使いやすく、心地いい「空間」があるべきだという考えが呼び起こされてきた。これが「ルネッサンス」である。「再生」と訳されているが、いつのまにか「神」中心だったものを「人間」中心に戻そうという運動である。これがフィレンツェにルネッサンスの発祥の地といわれることとなったきっかけである。 ●市場での取引で豊かになった「メディチ家」が芸術家を育てていたなかで起きたルネッサンスは、次々にフィレンツェの建物をルネッサンス様式に変えていった。外壁を彫刻などでゴテゴテさせたり、高くそびえる尖塔を立てたりというものはなく、いたってシンプルなものにし、人間の活動をより自由なものにするために内部空間を大きくとるようになった。現在のフィレンツェの中心部に残る建物の多くはこの時代のものである。 アクセス ●空路 欧州内各都市から直行便がある。季節により発着本数が異なる。曜日によっても異なる。国内線はローマ・ミラノは頻繁にある。パルマ(PLM)、ボローニャ(BLQ)からも週末を除く毎日2〜3便ある。 ●空港: アメリゴ・ベスプッチAmerigo Vespucci空港(FLR) (空港コードFLOはUSAのFlorence S.Cのもの。間違えないようにご注意) ピサの空港(PSA)と近いので、航空時刻表(OAG)では一緒の欄に掲載されている。発着空港名で区別しなくてはならない。 空港とフィレンツェ市街の中央駅前を結ぶバスは1時間おきに往復している。所要約20分。 ●鉄道 ローマ〜ミラノとの新幹線ルートになるので発着頻度が多い。ローマからES(ペンドリーニ)で1時間40分、ミラノから2時間45分、ICで3時間15分とあまり変わらない。 フィレンツェの駅 サンタマリアノヴェッラ駅 Santa Maria Novella、 時刻表ではFirenze SMNと表示されている。 ローマ、ミラノなどの主要都市からの列車はこの駅に到着する。 終着方式の駅で、大部分の列車は折り返し運転のため少し停車する。 (駅での注意点) 列車からスーツケースなど重い荷物をホームに降ろそうとすると、若い女の子が手伝ってくれることがある。降ろし終わると、すぐにチップの強要をする。 それも結構高額で10-20ユーロなどだ。相手にしないことだ。 また、あたかもポーターのような紛らわしい服装をした男たちが、タクシー?などと聞いてくる。これもみんな潜りで、足元を見て結構高額のポータレッジを要求してくる。 通常のポーターでも荷物1個当たり1-2ユーロが相場だ。 もっと呉れと強要されても断ることだ。 現地の旅行会社から出迎えのアシスタントを頼んでおけばポーターも手配してくれるが、通常はポーターは常時はいない。 このほかの駅として、近郊の中小都市間を結ぶ列車が利用する駅に、以下の2つがある。 リフレディ駅 Rifedi、 カンポディマルティ駅 Campo di Marte(アレッツォなど) 見どころ ●ミケランジェロ広場 Piazza Michelangelo フィレンツェの東南側、旧市街はずれでアルノ川の左岸の丘の上の広場。美しいフィレンツェを一望できる丘。広場の中央にはミケランジェロのダヴィデの像のコピーが立っている。 ●大聖堂 Duomo 正式の名称はサンタ・マリア・デル・フィオーレ Santa Maria del Fiore(花の聖母寺)。 町の中心地に立つ大きなキューポラ(円天蓋)を持つ寺院は、近くに行ったらとても全景が見にくい。むしろミケランジェロ広場からの方がわかりやすい。 トスカーナ地方に産するカラフルな大理石を組み合わせて外壁や正面を装飾している。正面前に洗礼堂を置き、隣に鐘楼がある。ジオットが設計をはじめ、建設に取りかかったもので、長い年月をかけて上のほうへ積み上げているため、デザインが時代によって少しずつ変化している。ルネッサンス期のメディチ家はこういうものへの建設にそれぞれコンペを催していた。洗礼堂の銅版の扉はギベルティが選ばれた。大聖堂の建設の最後の円天蓋を立てるときもコンペは行われ、ブルネレスキ―が当選している。キューポラはできあがったが、本体部分との接続部分の欄干装飾が今でも1か所だけで未完のままになっている。これもメディチ家と共にフィレンツェの繁栄が崩壊したことを物語っている。 ●ウフィッツィ美術館 Galleria degli Uffizi シニョリーア広場の端にあるコの字形の3階建ての美術館。ウフィッツィというのはオフィスのこと。もともとはメディチ家の事務所として使われていた。1559年にコシモ・デ・メディチの命令を受けたヴァザーリ Vassari の設計で1560年から2年間かけて作られた。コシモの後を受け継いだフランチェスコ1世が最上階にメディチ家所有の絵画コレクションを収めた。建物は一部アルノ川河畔に沿いからベッキオ橋 Ponte Vecchio の上部を通る通路で、左岸のピッティ宮までつなげられている。 最上階の絵画のコレクションが現在の美術館で、ルネッサンス期のものとしては世界最大の収集である。一番有名なのがボッティチェリの代表作「春(プリマベーラ)」「ヴィーナスの誕生」、さらにレオナルド・ダヴィンチやミケランジェロの作品もある。 ●シニョリーア広場 Piazza della Signoria 文字通りフィレンツエの中心の広場で、政治的にも社会的に最も重要な場所だった。広場には市庁舎として使われているヴェッキオ宮 Palazzo Vecchio がある。広場中央にはネプチューンの噴水があり、入り口にはミケランジェロのダヴィデのコピーがある。 ●ヴェッキオ橋 Ponte Vecchi アルノ川にかかる最も古い橋で、橋の上の両側には建物があり、2層になっていて1階部分には貴金属やみやげ物の店がぎっしり並んでいる。2階部分はウフィッツィ(昔のメディチ家の事務所だった建物)と川をはさんで反対側にピッティ宮とを結ぶ渡り廊下部分だった。 ●ピッティ宮 Palazzo Pitti メディチ家のライバルであったルッカ・ピッティが15世紀半ばに建てたものでフィレンツェ最大の宮殿。設計者はブルネレスキ―だった。16世紀になって堅固な宮殿の3階部分が完成し、現在のような姿になっている。内部は当時の様子を再現しているが、その装飾や調度品の華麗さは見ごたえがある。宮殿の裏手にはボーボリ庭園がある。 ●サンタ・クローチェ寺院 Santa Croce サンタクローチェ広場に面して建つ寺院で、白と黒緑の大理石を組み合わせたファサードを持つ聖フランチェスコ派最大の寺院。内部両側にはルネッサンスから近代までにフィレンツェが輩出した偉人の墓が並ぶ。ミケランジェロ、マキャベリ、ギベルティ、ガリレオ・ガリレイ、ロッシーニなどがある。 この寺院にはレザー加工の職人の養成学校が併設されていて、寺院の周辺には今でも皮革製品を扱う店が多い。寺院内部にも同様の売店があって、学校で作ったものが売られている。 ●サンマルコ美術館 Museo di San Marco 14世紀に建てられたサンマルコ寺院に建築家ミケロッティが設計してドミニコ会修道院を建て、そこが現在美術館となっている。フラ・アンジェリコの作品が収集されている。 フィエーゾレ生まれのフラ・アンジェリコがドミニコ修道会に入り、サンマルコ修道院に入ってから、僧院の壁いっぱいに教訓的場面を描きつづけた。 ●アカデミア美術館 Galleria dell 'Accademia ミケランジェロの数点の彫刻と13〜16世紀のフィレンツェ派の絵画の展示。目玉はミケランジェロの「ダビデ」像で、このコピーはミケランジェロ広場と市内中心地のシニョリーア広場のヴェッキオ宮にあるが、オリジナルは屋内に展示されている。 ●サンタ・マリア・ノヴェルラ教会 Chiesa di Santa Maria Novella フィレンツェ中央駅前広場に面しているドミニコ派の教会。中央駅を別名サンタ・マリア・ノヴェルラ駅と呼んでいる。内部はゴシック様式だが、正面ファサードは白と濃い緑の縞模様のルネッサンス様式で、1470年にアルベルティにより完成したもの。内部にはブルネレスキーの作となる木彫りのキリスト像があるほか、たくさんのフレスコ画が残されている教会である。 ●サン・ロレンツォ教会 Chiesa di San Lorenzo メディチ家の教会としてブルネレスキーの設計で1460年に完成したルネッサンス様式の建築だが、最後に正面のファサードの化粧を施す段になって、もはやメディチ家に完成させるだけの経済的力がなくなっていた。石を積み上げただけでむき出しになってしまっていて、ごつごつした状態のまま今日に至っている。 ●メディチ家礼拝堂 Chappelle Medicee サン・ロレンツォ教会に隣接しているメディチ家代々の墓のある礼拝堂で、入口はロレンツォ教会の反対側になる。観光客の多く訪れるところで、内部はメディチ家の旧廊と新廊にわかれている。ミケランジェロは最初の建築家としての仕事でこの新廊の建設を任された。1520年に建設が開始されたが、1534年に彼がフィレンツェを去っているため未完に終わっている。内部の四面に躍動感あふれる彫刻を施した廊墓を設けている。ロレンツォ2世の墓には「夜と昼」、ジウルアーノの墓には「曙と黄昏」をテーマにした大理石像が置かれている。 ●太陽の高速道路教会; (カンピ・ビゼッチオ) サン・ジョバンニ・バティスタ教会 高速道路のインターチェンジにある。 ジョバンニ・ミケルッチ作 メディチ家 ●ルネッサンス期には建築、彫刻、絵画などの芸術が開花し、著明な芸術家を多く輩出した。それには、有能な芸術家を見い出し、そのパトロンとなって修練の場を与え、その才能を発揮する仕事を提供した資産家たちの存在が大きい。その代表がフィレンツェのメディチ家である。 ●メディチ家の出自には諸説あるが、フィレンツェの指導者として台頭してきたのが1378年のチョンピの乱で大衆の支持を集めたのがサルヴェストロである。そして、1397年にメディチ銀行を設立したジョヴァンニ・ディ・ビッチ(1360〜1429)はサルヴェストロと親戚関係にあった。商才にたけていた彼はイタリア各地に支店網を広げて、教皇庁の取引銀行ともなった。ジョヴァンニはロレンツォ・イル・ヴェッキオとコジモ・イル・ヴェッキオの2人の息子がいた。 コジモ・イル・ヴェッキオ(1389〜1464)の時代から本格的なメディチ家の栄華が始まる。彼は優れた商才をもって富を蓄え、フィレンツェ一の富豪となった。古典に造詣が深く、芸術家や学者を庇護し、ヨーロッパ最初の公共図書館を建設するなど、公共事業にも莫大な資金を投じた。後に「祖国の父」の尊称が贈られている。 さらにコジモの孫ロレンツォ・イル・マニフィコ(大ロレンツォ 1449〜1492)は政治的権力も手に入れ、実質的にフィレンツェの君主になった。彼は自身が優れた詩人でもあり、享楽的なその精神はまさに時代を象徴するものであった。しかし、銀行業の方は衰退しはじめ、祖父コジモほど資金力はなくなっていた。そのため、芸術家たちに関しては、囲い込むというよりは、幅広い人脈を活かして国内外に派遣して才能を発揮させようとした。そのおかげで、ダヴィンチやミケランジェロなどの巨匠の作品が、フィレンツェ以外の都市でも見られることとなっている。 この時代、フィレンツェでは激しい政権争いが続き、コジモは一時フィレンツェを終われたこともあった。そして、1494年、大ロレンツォの息子ピエロの時、メディチ家はフィレンツェを追放される。しかし、1512年にライバルの政権崩壊にともない帰還。聖職についていたピエロの弟ジョヴァンニは史上最年少(37才)でローマ教皇(レオ10世紀)に選出された。1527年またしてもメディチ家は追放され、フィレンツェは共和制に戻るが、1530年にアレッサンドラが武力により奪回。彼の死後はロレンツォ・イル・ヴェッキオの血筋のコジモ1世(1519〜1574)が統治権を持つこととなり、初代トスカーナ大公の称号を得た彼は、フィレンツェの領土を拡大させていく。 しかし、世代を重ねて、ついに大公ジャン・ガストーネ・デ・メディチの死(1737)によって一族の歴史は終焉を迎える。「最後のメディチ」となった姉アンナ・マリア・ルイーザの遺言により、メディチ家所有の財産は全てトスカーナ大公国に寄贈されることとなった。 ●メディチ家のもとで活躍した建築・彫刻、絵画の巨匠たち --レオナルド・ダヴィンチ(1452〜1519) 1452年、フィレンツェの北西30kmのヴィンチ村に生まれる。14才の頃フィレンツェの画家・彫刻家アンドレア・デル・ヴェロッキオの工房に弟子入りし、20才で画家協会に登録した。16世紀の画家で伝記作家ヴァザーリは、師のヴェロッキオがレオナルドの描いた「キリストの洗礼」の天使を見て、弟子の才能に驚き、絵を描くのを辞めてしまったと著わしている。 29才の時、メディチ家のロレンツォ・イル・マニフィコからミラノのイル・モーロのもとに赴く。「最後の晩餐」描いたのはこの時期である。彼はフレスコを嫌い、顔料に油を混ぜるテンペラ画法を採用した。これが失敗し、1497年に絵画は完成したものの、たちまち剥落し始めてしまった。 1499年のフランス軍の占領でミラノを脱出し、マントヴァ、ヴァネチアを経て1500年にはフィレンツェに戻った。そして1503年頃からモナリザの制作が開始され、1505年頃完成したと見られる。 1506年にはフランスのミラノ総督にミラノに招かれ、次いでジュリアーノ・デ・メディチに仕えるためローマに赴くが、ヴァチカンからの依頼はなかった。1519年にはフランスのフランソワ1世の招きでフランスに渡り、ロワールの古城アンボワーズで手厚い保護を受け、1519年死去。その時に携えていた絵の一つが「モナリザ」である。 --ミケランジェロ(1475〜1564) レオナルド・ダヴィンチと並ぶ、ルネッサンスを代表する芸術家。1475年フィレンツェの名門に生まれた。13才の時に画家ギルランダイヨ兄弟に弟子入りしたが、メディチ家の設立した彫刻学校で大ロレンツォに見出されることとなり、自邸に引き取られて寵愛されたと言われている。 彫刻『ダヴィデ』に見られるように、彼は人間の精神の解放を理想化した肉体を通じて表現した。絵画においてもその性質は同様で、ヘレニズム彫刻のような逞しい姿を描いているのが特徴である。教皇ユリウス2世の命により、ヴァチカンのシスティーナ礼拝堂の天井画に取り組むこととなったが、4年余りの歳月をかけて制作した「創世記」の諸場面の圧倒的な迫力は、まさに「神のごとき」業である。 --ラファエロ(1483〜1520) 1483年ウルビーノに生まれる。少年時代に両親を亡くし、ペルージャの画家ペルジーノの工房に弟子入りする。21才にの時フィレンツェに赴き、ミケランジェロらのフィレンツェ美術の精髄に触れる。教皇ユリウス2世の招きでローマに行き、ヴァチカン宮殿の教皇居室「署名の間」「ヘリオドスの間」の壁画を制作、「アテナイの学堂」などの大作を描いている。(この時期にミケランジェロは天井画を完成させている)。ダイナミックな人体表現を修得。彼は必要あらば新しい技法や作風を先輩巨匠から吸収していった。彼を称して「模倣の天才」と呼ぶことがある。 37才という若さで生涯を終えるが、亡骸はローマのパンテオンに眠っている。 --ボッティチェリ(1444〜1510) なめし職人の息子として生まれるが、画家としての才能を発揮。メディチ家と交流を持つようになった。特に大ロレンツォとは若いころから親しく、享楽的な感性が相通じ、意気投合したと言われている。それまでタブー視されていた裸婦像など官能的とも言える人体表現を試み、「春(ラ・プリマベーラ)」などを描いた。一時ローマに赴き、システィーナ礼拝堂の壁面装飾などを手掛けたが、再びフィレンツェに戻って描いたのが「ヴィーナスの誕生」である。これはキャンバスを使用した初期の大作としても価値を持っている。 フィレンツェの名物料理 イタリアのステーキで知る人ぞ知る逸品は、何といってもフィレンツェの名物「ビステッカ・アッラ・フィオレンティーナ Bistecca alla Fiorentina」(=フィレンツェ風ステーキ)だ。トスカーナ地方の豊かな土地で丁寧に育てたブランド肉「キアナ牛」。イタリアで一番おいしいといわれ、レアもので地元でもなかなか手に入らない。もちろん日本には輸入することができず、類似のアメリカ産が入ってきている。塩・胡椒をふりかけて炭火で焼くTボーンステーキはまさに名物中の名物。 フィレンツェ市内の少々高そうなレストランの入口のメニューを見てフィオレンティーナがあったら迷わず入ってトライして見ることをおすすめする。レストランは8時頃から混雑してくるから、少々早めに予約なしで行ったらいい。これだけで十分に満腹になるので、スパゲッティだのスープだのとプリモピアットはカットした方がいい。 グループでこのメニューをオーダーするのは早めに予約が必要。キッチンのサイズの関係で大きな団体は受けられないこともある。 ショッピング 豊かなフィレンツェは馬具などを製造していたので、皮革職人が多くいた。そのため皮細工のみやげ物がたくさん売られている。そして、馬具屋だったグッチは本店をこの街に置いている。ほかにもフェラガモの本店をはじめ、ブランド店が数多くあり、フィレンツェはミラノ、ローマと並び買い物好きが押し寄せるところである。 郊外のアウトレット フィレンツェ郊外には特定ブランドのアウトレットがあり、4〜5年前からブランド物大好き人間にとってフィレンツェは建築でもなければ美術でもなく、盲目的にアウトレットの聖地であった。最近は少し落ち着いてきたが、まだまだアウトレットは雑誌で見たあのブランドが安く買えると信じきって訪れる若い女性たちが少なくない。 概してアウトレットは地元の人たち向けで、日本人にとってはあまり魅力を感じない、どこへ行っても見られる商品が安く売られているという感じのところが多い。しかし、フィレンツェのアウトレットは一つのブランドだけに特化しているのが特徴だろう。ただし、最新のものはなく、すべて型落ち品であることは重々承知の上で訪れることをアドバイスすべきである。いずれも市内からは結構不便なところにある。 ●グッチ・アウトレット 市内からタクシー利用がいい (所要30分)。現地に着いても、そのまま待たせておかないと帰りの足がない。 ●プラダ・イ・ペレッティエーリPellettieri フィレンツェから40km。中央駅からアレッツォArezzo行きまたはキウジChiusi行きでMontevarchi下車、タクシーで10分。タクシーの数は少ないので、列車に日本人がたくさん乗っていたら急ぐべし。しかし、待てばすぐ降り返してくる。 このほかマックスマラのアウトレットもある 祭り ●スコッピオ祭(復活祭): 祭の最後に「山車」を燃やすことから名付けられている。華やかな時代行列のあと、雄牛の引く山車から打ち上げられる爆竹が盛大に祭りの最後を飾る。 フィレンツェ近郊 ●フィエーゾレ Fiesole ●メディチ家の別荘 Villa Medicea ベトライア荘Villa Medicea La Petraia カステッロの別荘Villa Medicea di Castello カレッジ荘Villa Medicea di Careggi ポッジョ・ア・カイアーノの別荘Villa Medicea di Poggioa Caiano ●ムジェッロ Mugello ●コッローディ村 Collodi(ピノッキオ公園) ●ヴインチ Vinci ●キャンティ Chianti |