フランス
フランスの著名人 †
- ジャンヌ・ダルク(1412〜1431) 百年戦争の救世主
アルザス地方のドンレミ村の農家に生まれる。当時フランスは百年戦争の最中であった。
戦いは当初イギリスが優勢で、1428年にはフランス最後の拠点オルレアンを包囲した。~ここで救世主として現れたのがジャンヌ・ダルクである。「王太子(シャルル7世)を国王にさせる」という神の啓示を受けていた彼女はシャルルに直訴。権限を与えられて戦闘指揮を取り、敵の包囲を破り圧倒的勝利を収めた。シャルルはランスで戴冠式を挙げ、ジャンヌは軍旗を手にして王のそばに立った。
その後も進撃を続けたが、イギリスにつながりのあるブルゴーニュ方に捕われた。シャルル7世は擁護しようとせず、ジャンヌはイギリスに身柄を確保されて宗教裁判にかけられた。そして「神の啓示」を受けたと主張したことなどが審議された結果、異端を宣告されて、ルーアンで火刑に処された。
後にシャルル7世はルーアンを奪還し、大司教館でジャンヌの有罪判決無効の宣告がなされた。そして1920年、ローマ法王庁はジャンヌを聖者に列している。
- ナポレオン・ボナパルト(1769〜1821)
コルシカ島生まれ。陸軍仕官学校出身。革命以降、イギリスを中心とした対仏大同盟が敷かれるなか、数々の戦績を残し、最高司令官となる。
1799年、ブリュメール18日のクーデターで第一統領に就任すると、後に憲法を改訂して終身統領となった。さらに元老院(上院)から皇帝の称号を受けると、「余はルイ16世を継いたのではない。シャルルマーニュを継いたのだ」と語った。彼は大陸封鎖令を発して、イギリスの経済的、政治的影響を排除したうえでヨーロッパ大陸に勢力を拡大していった。そして1810年、ジョゼフィーヌと離婚し、オーストリア皇女(前神聖ローマ皇帝フランツ2世の娘)マリー=ルイーズと再婚して、帝政の絶頂に達した。
ところが、ロシアが反発し大陸封鎖令の破棄することとなり、ナポレオンはモスクワを攻めた。しかし、慣れぬ土地での戦いで兵力は消耗し、1812年冬に大きな犠牲を払いながら退却することとなった。次第に戦況は悪化し、戦費で困窮した国内にも厭戦(えんせん)気分が漂った。そしてついに1814年プロイセン・ロシア・オーストリア連合軍にパリを占領されて皇帝を退位、エルバ島に追放された。
しかし、ルイ18世の治世の不評を聞くと、翌年エルバ島を脱出。持ち前のカリスマ性で軍勢を引き入れ3月にパリに入城。再度帝位に着くものの、6月にはワーテルローの戦いに敗れて退位。セント・ヘレナ島に流された。
- ココ・シャネル(1883〜1971) ファッション・デザイナー
南仏オーヴェルニュ地方に生まれる。12歳の時に母が亡くなり、孤児院、修道院で少女期を過ごす。20歳の時、カフェの歌手となり、彼女のファンであった資産家のバルサンの出資で1910年、パリで帽子店を開く。当時流行した帽子は装飾が施された華やかなスタイルであったが、彼女のデザインしたのは頭にピッタリと収まるシンプルなものだった。彼女はファッションの世界から「女性の解放」を試みた。コルセットで固めるより自然に体をシェイプアップさせることを提唱。着やすさを重視し、収縮性のある素材を使った。
1921年、試作品の5番めのボトルから「シャネルの5番」が誕生。また、イミテーションの宝石を堂々と使ったアクセサリーを制作。女性ファッション界の頂点に君臨した。
第2次世界大戦からしばらく店を閉じていたが、1954年、ファッション界に復活。機能性を重視したノーカラーのジャケットに膝丈スカートのシャネルスーツは今でも指示を受けている。
- シャルル・ド・ゴール(1890〜1970) 元フランス大統領
リール生まれ。士官学校を卒業。第一次世界大戦で重傷を負いドイツ軍の捕虜となる。第二次大戦では陸軍政務次官となったが、パリは陥落、ドイツ軍の支配下となった。しかし、ド・ゴールはイギリスに亡命し、連合軍に参加。ロンドンからラジオで徹底抗戦を呼びかけた。44年にアルジェリアでフランス共和国臨時政府の首相となり、パリ解放とともに凱旋帰国。しかし、諸党と折り合いがつかず、46年に退任。58年に首相に再任されると、翌年、第五共和制を発足させ大統領となった。60年に核実験を実施、64年に中国を承認。フランスの独自の地位を主張する外交を展開を敢行した。69年、行政改革に関する国民投票に敗れて辞任。
ド・ゴール大統領の下で首相を4期務め、後に大統領に就任したのが、近代美術館のある建物の名にもなっているジョルジュ・ポンピドゥー。
- ジャン・ポール・サルトル(1905〜1983) 実存主義の哲学者
パリ生まれ。高等師範学校に学び、ボーヴォワールと互いの自由な恋愛を認め合う「契約結婚」をする。教授資格試験を首席で合格し、ルアーブルで高校の哲学教師となったが、有害視されていた映画や煙草を生徒に勧めるなど、型破りな面を見せた。
しかし、第2次世界大戦の体験は彼の「人生を真っ二つ」にした。ドイツ軍の捕虜となり、パリがナチズムの手に墜ちるのを目の当たりにする。戦後は作家の政治参加を主張。積極的に発言するようになった。ソ連共産党に接近し、カミュと論争。インドシナやアルジェリアの独立を支援して、極右組織に自宅を爆破されたりした。64年、ノーベル文学賞を辞退。
社会問題に対する立場を明確にし、それにより自己を規制する姿勢をサルトルは「アンガージュマン」と呼び、今日の日本でも市民の政治活動への参加の標語ともなっている。
- エディット・ピアフ(1915〜1963)シャンソン歌手
労働者の街パリ20区のベルヴィルの街灯の下で生まれたと言われる。本名エディット・ジョヴァンナ・ガシオン。父は大道芸人、母はシャンソン歌手であった。生後2か月で祖母におしつけられた。腹違いの妹シモーヌを連れて街で歌い、子どもの頃から立派に稼いでいた。
見込まれて初めてキャバレーで歌ったとき、支配人は芸名をエディット・ピアフにした。
ピアフとは「雀」を意味する卑語である。舞台に出るときはいつも十字を切り、幸運の色として紫を愛し、初舞台以来、紫のスカーフを放さなかった。
彼女は空色の眼が好きだった。相手の男性は次々と変わったが、いつもその時の男こそ本物の空色の眼の持ち主だと主張した。彼らは皆彼女の手編みのセーターを着せられた。
彼女は編み物が大好きで上手だった。エディットは背丈147cm、白くしっとりとやわらかな肌と小さな手を持ち、寒がりで日光が嫌い、夜が好きだった。生前の彼女を知る人は 「あんな小さな体で、びっくりするほどの声量だった」と語っている。
39歳のとき16区の区役所で一度結婚、2か月後改めてニューヨークの教会で式を上げた。~その際には、空色づくめの花嫁であった。この前年から死に至るまで自動事事故が4件、自殺未遂1回、麻薬中毒の治療4度、アルコール中毒の発作2回、肝臓病で昏睡状態に陥ること3度、膵臓炎など手術が7回…と、体は相当ずたずたになっていた。
1962年、16区の区役所でテオと結婚、ギリシャ正教会で式を挙げる。翌年カンヌで入院した彼女の体重は33kgにまで痩せ、髪も脱け落ちて「パリで死にたい」と述べた。
パリのペール・ラシェーズの墓地には毎年秋には多くの人が墓の周りに集まる。
近現代の画家たち †
パリや南仏の美術館や画家のゆかりの地を巡るのは、フランス旅行の楽しみのひとつとして定着している。それほど絵に関心のない人でも、パリを訪れたら美術館のひとつふたつは見学をすることだろう。特に印象派をはじめとした19世紀以降の絵画は、宗教画や歴史画と違って日本人にも馴染みやすく、旅行者に大変人気がある。
中世より絵画は写実的な肖像画、宗教画、歴史画が中心であった。19世紀の中頃、モチーフを戸外に求めたのが、バルビゾン派と呼ばれるミレー、コローたちである。さらに、自然の光と色彩を大切にしようと立ち上がった集団が日本でもよく知られている印象派だ。
19世紀にパリは経済的、文化的に飛躍的な発展を遂げた。しかし、一流画家への登竜門であった「サロン」と呼ばれる官立の展覧会の評価の基準はとても保守的であった。そんなサロンへの批判が高まり、1863年には落選作を世に問うべく「落選者展」が開かれた。以降、それまでタブーとされた題材や表現方法を使った作品も日の目を浴びるようになった。パリのオペラ座からマドレーヌ寺院に至るキャプシーヌ通りにある写真家ナダールのスタジオでは、1874年から86年まで計8回の「印象派展」が開かれている。
そして、ますます国内外の芸術家たちはその自由な空気を求めてパリを目指すこととなり、大胆な色彩とタッチの「野獣派」や、多角的な構図をキャンバスで表現した「キュビズム」などを前衛的な画法も生まれた。1910年代から30年代にかけてモンマルトルやモンパルナスで制作活動に励んだ画家たちは「エコール・ド・パリ(パリ派)」と呼ばれている。
- ジャン・フランソワ・ミレー(1814〜1875)
印象派が台頭する前に活躍したバルビゾン派の代表的画家。農村で働く人々を描き、農民画家として高く評価された。ノルマンディーの村グリュシーに農家の長男として生まれた彼はシェルプールで絵を学び、1837年にパリに出てドラロッシュに師事。
サロンに肖像画や神話画などを送り、入落選を繰り返していたが、1848年、2月革命で成立した共和政府下のサロンで、農民を描いた絵が評判となる。翌年、政情不安定のパリからバルビゾンに移住。そこでルソーとも親交を深めた。75年にバルビゾンで病死。彼の墓は村はずれの『落穂拾い』の題材になった畑の向こう側、Chailly の墓地にルソーと並んである。
有名な『落穂拾い』『晩鐘』はオルセー美術館1階に展示されている。ボストン美術館をはじめ世界各地の美術館がミレーの絵を所蔵しているが、山梨県立美術館でも「夕暮れに羊を連れて帰る羊飼い」を鑑賞することができる。
- エドゥアール・マネ(1832〜1883)
ブルジョア階級の家の長男としてパリに生まれる。父の希望で海軍士官学校を受験するが失敗。画家になること決意し、トマ・クチュールのアトリエに通う。
1863年落選者展に『草上の昼食』、65年サロンに『オランピア』を出品し、スキャンダルを巻き起こす。30代でパリの有名人になってしまい、一般大衆には不道徳なボヘミアン画家と見られていたが、若き前衛的芸術家からは革新的リーダーと見られていた。印象派のメンバーは、リーダー格のマネのアトリエがあったことから「バティニョールの仲間たち」とも呼ばれていた。近くのクリシー通りのカフェ・ゲルボワも仲間たちの溜まり場だった。
ルノワール、モネら印象派の画家たちとの親交もこの頃から始まる。しかし、マネは印象派のメンバーにはならず、第1回印象派展にも出品していない。彼にはサロンで認められてこそ画家であるという信念があったからだ。
76年に運動失調症の最初の兆候が出てきて、83年には片足を切断することとなった。その11日後の4月30日、パリ近郊で死去。最後の数か月は花の連作を描き続けていた。
- クロード・モネ(1840〜1926)
1840年、パリに生まれる。幼少時に移り住んだルアーブルで画家ブーダンと出会い、戸外での制作をすすめられる。18歳でパリに出て絵を学ぶが、当時の保守的な美術教育に反発し、ピサロやルノワール、シスレーらとともに新しい時代の絵画を模索する。74年、仲間たちと開催した展覧会に『印象一日の出』を出品。これが「印象主義Impressionnisme」という言葉を生むきっかけとなった。
屋外で作品を制作し、光と色彩の効果を追求した画家にとって、パリの近代化は、彼をどんどんとセーヌ川の下流の町に移り住むことを余儀なくさせていった。アルジャントゥイユ、ヴェトゥイユ、ポアシー、と転々とした後、ジヴェルニーに庭園を作り、『睡蓮(すいれん)』の連作の制作に取りかかり、死の直前まで描き続けた。彼は睡蓮をモチーフに多くの作品を描いたが、特にオランジュリー美術館の大作は有名である。1926年ジヴェルニーの家で肺気腫のため死去。この時モネが所蔵していた遺作82点がマルモッタン美術館に寄贈されたが、『印象・日の出』もその中の1点である。
- イレール・ジェルマン・エドガー・ドガ(1834〜1917)
パリの裕福な銀行家の長男に生まれ、1853年、パリ大学法学部、1855年にはパリ国立美術学校に入学する。1856〜59年、イタリアに遊学。1862年、マネと知り合う。
1870年頃から足繁くオペラ座に通うようになり、バレリーナを描いて高い評価を受け、「踊り子の画家」を生涯のテーマとする。オルセー美術館にはその作品の一部が展示されている。彼はほとんど風景画は描かず、人物の一瞬の動きを捕らえた構図が多い。
50歳を過ぎると、視力の低下に悩まされ、油彩よりも目を近づけて描けるパステルを多用してパリの風俗や裸婦、踊り子を描いた。
- ポール・セザンヌ(1839〜1906)
南仏エクサン・プロヴァンスに事業家の長男として生まれる。エクス大学法学部に入学するが、画家志願を強くしていたため中退。美術学校の付属のデッサン学校に通い、本格的に絵の勉強を始めるためパリの美術学校の入試を受けるが失敗。父の銀行で働くこととなった。
後にピサロと知り合い、彼とともにパリ近郊で制作活動をするようになり、次第に印象派の影響を受けた。1873年にはオーヴェル・シュル・オワーズに転居する。
第1回と第3回の印象派展に参加。しかし、その後は南仏にこもって、うつろいやすい光の表現よりも、変わることのない自然の本質を探求するようになる。
1906年、戸外で制作中に嵐に見舞われ衰弱、急逝。アトリエには制作中だった「大水浴図」が残されていた。晩年にエクスに作った新しいアトリエは、現在では観光ポイントになっている。
- ピエール・オーギュスト・ルノワール(1841〜1919)
磁器の町リモージュに、職人の子として生まれ、4歳のとき一家でパリに移住。13歳で陶磁器の絵付け見習いとなった。1861年画家を目指し、グレールのアトリエに入門。モネやシスレーらと親交を深め、自身も72年にはアルジャントゥイユで制作をするようになる。
彼は自然そのものよりも、自然の中で遊ぶ人間に心をひかれたようで、少し下流にあるレストラン、ラ・メゾン・フルネーズに集う家族を描いた「舟遊びの人々の昼食」は彼の代表作として知られている。絵の中で子犬を抱き上げる少女が後の妻シャリゴである。
1874年第1回印象派展出品、印象派を代表する作家となる。その後、肖像画のパトロンに恵まれ、社会的成功をおさめた。晩年はリューマチの療養を兼ねて南仏に転居、アトリエを構えたが、次第に手足が動かなくなり、手に筆を縛り付け、車椅子で制作をしていた。
ルノワールにはオルセーなどにも多く見られるように、裸婦の絵がたくさんあるが、妻シャリゴを含め、多くのヌードモデルを描いており、歳とともに円熟味を増していった。
- ポール・ゴーギャン (1848〜1903)
1848年パリに生まれ。1歳のとき一家でペルーのリマに移住するが、そこで父が急逝。1855年にフランスに戻り、オルレアンに居住した。17歳で船乗りとなり、世界各国を巡る。後に23歳でパリで株式仲買人としてベルタン商会に就職。この時から絵を描き始めた。76年にサロンに初入選。83年、退職して画家として独立した後、ブルターニュに赴き、周囲の若い芸術家たちに影響を与えた。
1888年ゴッホに誘われアルルに移り共同生活をしたが、わずかな共同作品を残したのみで約2か月間で決裂した。
1891年から93年まで、初めてのタヒチ滞在。95年から2度目のタヒチ滞在。生涯、放浪と貧困のなかで旺盛に制作活動を続けた。オルセー美術館にも所蔵されているが、南太平洋の女性を生活の姿を独特の色づかいで描いた作品は異彩を放っている。
- フィンセント・ファン・ゴッホ (1853〜1890)
オランダ南部の村に牧師の次男として生まれる。伯父の営む名門の画商で働いた後、26歳の時、聖職の道へ進むことを熱望し、伝道師となるが挫折。幼い頃より親しんできた絵画の世界を志す。ベルギーの美術学校で学んだ後、画商の弟テオを頼ってパリヘ。
88年南フランスのアルルヘ移ってアトリエを構え、「ひまわり」や跳ね橋を描いた「ラングロアの橋」の作品を残す。ゴッホの強い誘いに親友ゴーギャンもアルルに来て共同生活を始めるが、2か月にして決裂。精神病の発作を起こすようになり、サン・レミの療養所に入院。90年5月にパリに戻り、ガシェ医師のいるオーヴェル・シュル・オワーズヘと移り住んだが、拳銃で自らを撃ち、死亡。この間わずか2か月で70点の作品を残しており、麦畑や教会をモチーフにしたものはよく知られる。彼の墓はオーヴェルの丘の上の墓地に眠っている。半年後に逝去した弟テオの墓もオランダから移されて、兄弟並んで埋葬されている。
- トゥールーズ・ロートレック (1864〜1901)
南仏アルビに伯爵家の長男として生まれる。1881年パリに出てきて絵画に取り組み始め、モンマルトルの歓楽街に入りびたり、人々を哀感を込めて描き続けた。1891年「ムーラン・ルージュ」のポスターが評判となる。以後ポスターや版画にも多くの秀作を残した。
アルコール依存症、梅毒などの病ののち、1901年9月9日、母の実家であるボルドー近郊のマルロメの城へ帰り、そこで母に看取られてこの世を去った。短い生涯ながら、600点以上の油彩、350点のリトグラフ、31点のポスター、数千枚の素描画を描いている。
- アンリ・マティス(1869〜1954)
フランス北部のル・カトー・カンプレジに生まれる。1889年から翌年にかけて故郷の法律事務所に勤めたが、虫垂炎にかかり静養中に絵を描き始めたこときっかけに、画家になることを決意。パリに出て国立美術学校のギュスターヴ・モロー教室などで学ぶ。
1905年にはサロン・ドートンヌに出品した「帽子の女」は、その作品の激しい色彩の表現から「野獣(フォーヴ)」と非難され、騒ぎになる。
1917年以降は冬はニースで過ごすようになり、パリとニースで制作。1941年、リヨンで十二指腸癌の大手術を受けベッドで制作。奇跡的に快復するが、体力の必要な油絵の制作は困難となり、以降は次第に切り紙絵に移行する。1948年から2年間かけてニース郊外ヴァンスの町外れの礼拝堂の装飾も手がける。~
- パブロ・ピカソ(1881〜1973年)
スペイン南部の港町マラガに生まれる。15歳の時バルセロナの美術学校に入る。1900年、初めてパリに出て、1904年には、若き芸術家が下宿していた「洗濯船」(バトー・ラヴォワール)に定住するようなり、モンマルトルで多くの芸術家と交わった。
1907年には「アヴィニョンの娘たち」を発表し、キュビズムを生み出す。1937年のパリ万国博覧会には『ゲルニカ』を発表、名声はますます高まる。第2次大戦後は陶芸などに取り組み、南フランスのヴァロリスで過ごすことが多くなった。
1950年代には美術史上の名画をモティーフにした絵画を制作、80歳を超えてなおも精力的な活動が続いた。1973年、南フランス・ムージャンで肺水腫のために死去。
何よりピカソはパリに来てから生涯にわたって女性に異常なまでの関心を示し、次から次へ女性を人一倍激しい情熱を持って愛情を傾けていた。
パリにはピカソの生涯を知ることができるピカソ美術館がある他、オランジュリーでは「バラ色の時代」の作品、国立近代美術館にはキュビズムの作品が展示されている。
- モーリス・ユトリロ(1883〜1955)
10代からアルコール依存症に苦しみ、治療のために入退院を繰り返したユトリロに、医師は飲酒癖治療のために絵を描くように勧め、これが画家への始まりとなった。彼はパリの街角の風景を多く描き、特にモンマルトル界隈の絵画が数多くある。
29歳のときにモンマルトルでモディリアーニと出会う。そして翌年、初個展を開き大成功。画商たちに認められるようになった。
1955年、南仏旅行中に死去。墓はモンマルトルのサン・ヴァンサン墓地にある。
- アメデオ・モディリアーニ(1884〜1920)
1884年、イタリア、リヴォルノに生まれる。両親ともに由緒あるユダヤの家系。
1903年、ヴェネツィアの美術研究所に入学。1906年、パリヘ渡り、モンパルナスの芸術家たちと交友を深める。酒と麻薬浸りの退廃的な生活のなか、細長い顔と少し首の曲がった首の特徴的な肖像画を数多く描くようにった。
1919年グループ展で高い評価を受けるものの、翌年長年患っていた結核により喀血。サン・ペール街の慈善病院で死去。
- マルク・シャガール(1887〜1985)
1887年7月7日、帝政ロシア(現ベラルーシ)領ヴィテプスタのユダヤ人居住区に生まれる。1910年にパリに出てきて絵を学ぶ。翌年には世界中から若い画家たちが集まる「蜂の巣」に転居、彼らとともに、いわゆる「エコール・ド・パリ」を形成した。
1914年一時帰国して、ベラと結婚するが、直後に第1次大戦、次いでロシア革命が勃発。しばらく故国にとどまる。革命政府と折り合いが悪くなり、再びパリに出たのは1923年。
1937年にはフランス市民権を得る。しかし、2年後には今度はナチスのユダヤ人迫害の危機にさらされ、南仏に逃げる。しかし迫害は南仏にまで及んできたため、1941年、アメリカに亡命、ニューヨークで生活する。1948年に再びフランスに戻り、以後南仏を拠点に活躍し、世界各地のステンドグラスやパリのオペラ座の天井画制作を手がけた。
1973年フランス政府は彼の功績を讃えて、誕生日にニースに「シャガール聖書美術館」を作った。その12年後、1985年南仏の自宅で97歳の生涯を終えた。
ニース郊外サンポール・ド・ヴァンスの墓に93年に没した妻ヴァヴァとともに眠っている。
(参考文献『週刊美術館』(小学館))
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