マケドニア

歴史

マケドニア地域の南スラヴ人は、東ローマ帝国、ブルガリア帝国、セルビア王国などの支配を経てオスマン帝国の支配下に入った。オスマン帝国は支配下の人々の分類を言語や民族ではなく宗教の所属においたので、これらの人々の帰属意識も東方正教会の信仰におかれ、マケドニア人という民族意識も民族名称も存在しなかった。
1912年、第一次バルカン戦争でマケドニアの大部分はブルガリア領に入るが、翌1913年の第二次バルカン戦争により西北部4割はセルビア(のちユーゴスラビア王国)が奪取した。このセルビア領マケドニアがのちのマケドニア共和国の起源である。第二次世界大戦後、ユーゴスラビア連邦はこの地域にマケドニア共和国を置き、この地方の南スラヴ人はマケドニア人と呼ばれるようになる。

1991年-1995年の国旗
1991年9月8日、ユーゴ解体に伴い、マケドニアは独立を宣言。国名をマケドニア共和国とし、古代マケドニア王朝のシンボルであるヴェルギナの星(ヴェルギナの太陽ともいう)を描いた国旗を制定した。1992年3月に連邦軍が撤退して独立を達成した。 1993年1月に国連に加盟申請するが、ギリシャとの間で「国名論争」が勃発し、4月に現在の暫定国名で国連加盟が承認された。しかしギリシャは納得せず、1994年2月に経済封鎖された。このとき、国旗を変更、憲法の一部を改正した。1995年にはギリシャの経済封鎖が解除された。
1998年、総選挙の結果、旧共産系の社会民主同盟に代わり、中道右派連立政権が成立。1999年3月に始まったNATO軍によるユーゴスラビア空爆(コソボ紛争)によって約50万人のコソボ地域のアルバニア系住民が難民として押し寄せた。2001年2月、アルバニア系住民の民族解放軍(NLA)が武装蜂起した(マケドニア紛争)。8月にアルバニア系住民の権利拡大を認める和平合意文書(オホリド合意)に調印し、NATO軍が駐留を開始した。11月には議会が合意に基づき憲法を改正。2002年9月の総選挙では、マケドニア人政党社会民主同盟が政権を奪還し、NLAが改組したアルバニア人政党「民主統合連合」と連立政権を組んだ。その後もアルバニア系武装勢力によるテロ事件や、警察との衝突が散発的に起こったが、現在は落ち着きをみせて治安は安定している。






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