ハンガリー

歴史・世界遺産

歴史

現在のハンガリーの地に着いたマジャル人の部族長アルパードの子孫イシュトバーンは、平和的な安定した外交関係を築くため、キリスト教に改宗することとなった。~1000年に神聖ローマ帝国の承認を受けてローマ教皇から王冠を授かり、ハンガリー王国を建設した。

13世紀にはモンゴルの攻撃を受けて国土は荒廃したが、ベーラ4世が復興し、首都をブダに移した。
その後は国内は安定し、ルネッサンス期には大いに繁栄した。しかし、1526年モハーチの戦いでオスマン‐トルコに破れると、国土はオスマン‐トルコとハプスブルク家の支配下に分割され、ハンガリーの自治は失われた。後にオスマン‐トルコが衰退すると、ハプスブルク家はハンガリー全土をを掌握することとなる。19世紀になると、当時のヨーロッパでの自由独立運動の流れの中で1848〜1849年に対オーストリア(ハプスブルグ家)独立戦争が勃発。この時、ブダとペスト間を初めて結ぶ完成したばかりの「くさり橋」の一部がハプスブルグ家の軍隊により破壊された。敗北したハンガリーは以降オーストリアの“新絶対主義”の支配下に置かれた。1867年、オーストリア・ハンガリー二重帝国を形成。1873年にはブダ、ペスト、オーブダの3市を統合し首都ブダペストが誕生する。

第一次世界大戦後(1918年)、オーストリア・ハンガリー帝国は瓦解(がかい)しハンガリーは独立。第二次世界大戦中は実質的にナチス・ドイツの占領下に置かれるが終戦で解放され、1949年の選挙でハンガリー人民共和国憲法を採択、ソ連を頂点とする社会主義陣営の中に組み込まれる。
1956年、反ソ・反政府のハンガリー動乱(現在では革命と呼ばれている)が発生するが、ソ連軍の介入で鎮圧される。1968年、社会主義国でいち早く経済改革を導入、企業の自由化などが図られた。社会主義末期には体制側からも68年の「動乱」は「革命」であると見直す考え方が起こり、一連の体制崩壊の起爆剤となった。1989年10月、社会主義体制と決別した際には、市民はくさり橋に集まり再スタートを祝った。

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