ポーランド

歴史;

966年にポラーニエ族の王ミェシコ1世により建国されるが、王の死後、分裂が進む。~1320年にヴァディスワフ1世により再びポーランドが統一されクラクフに首都が置かれた。その後王位を継承したルドヴィクの娘と結婚したのがリトアニア王のヨガイラ。彼がポーランド王についた1386年からヤギェウォ王朝の時代が始まった。
1410年にポーランドとリトアニア連合軍がドイツ騎士団を破るなど領土を広げ、バルト海沿岸のグダンスクを支配下に置いてからは東西ヨーロッパの交易地として大きく繁栄した。

1572年にヤギェウォ王朝は断絶。以後、選挙により国王を選出する君主制共和国となる。
1599年には、ジグムント3世によりワルシャワに遷都される。1655年、スウェーデンによるポーランドへの侵攻の際には、ヤスナ・グラ修道院の聖画『黒いマドンナ』がチェンストホーヴァの街を守ったとして知られている。スウェーデンに続いてプロイセン、トランシルヴァニアにも攻められた17世紀後半にポーランドを援助したのがピョートル大帝時代のロシアで、以後ポーランドはロシアの影響下に置かれることとなる。
なお、1683年のウィーン包囲の際、ポーランドのヤン・ソビエスキ3世率いるキリスト教徒連合軍がオスマン-トルコ軍を破り、陥落寸前に追い込まれていたウィーンを救った。キリスト教世界にとって救世主となった彼をポーランド人は誇りにしている。

1772、93、95年と3度にわたってロシア、プロシア、オーストリアの3国によってポーランドの国土は3分割され、100年以上にわたって国家が消滅していた。
第一次世界大戦後、ポーランド共和国として独立したものの、1939年にはドイツとソ連に分割され、第二次世界大戦中はナチス・ドイツに占領されていた。
1944年のドイツ敗戦による終戦で解放。ソ連による社会主義陣営の中に組み込まれ、1952年ポーランド人民共和国が成立。
1980〜81年、自主管理労働組合「連帯」を中心として民主化運動が活発化し、社会主義国として前例のない権利を獲得した。

世界遺産;

2006年までに14ある

国立公園・自然保護区など;




ポーランドの著名人

ショパン,フレデリック・フランチシェク(1810〜49)

作曲家。 ワルシャワ郊外に生まれ、ワルシャワ音楽院でピアノと作曲を学び、20歳のときデビュー演奏会を行って一躍有名になった。同年、彼は故郷を離れ、パリに移住。そこで上流社会の間で絶賛を博す。1837年女性作家ジョルジュサンドと出会い、翌年から9年間同棲生活をする。
肺結核を患っていた彼は彼女とともにスペイン・マジョルカ島で療養生活をしていた。彼女と別れてほどなくロンドンを訪問したことで病状が悪化し、翌年息を引きとる。享年39才。
作品のほとんどがピアノ曲で、フランス風に洗練された貴族趣味的な気品と、ポーランド風に庶民的なリズム感、情熱等の特色が19世紀のピアノ音楽の一つの典型をなすこととなる。
彼の協奏曲は日本でもしばしばコンサートで演奏されるが、ほかに、ソナタ、スケルツォ、バラードなども手掛けている。小曲として『子犬のワルツ』『別れの曲』などよく知られる。
ワルシャワ郊外のジェラゾバ・ボーラにある生家はエクスカーションとして人気のあるところだ。
ショパンの墓はパリのペーラシェーズ墓地にあるが、心臓だけはワルシャワの聖十字架教会の柱に埋め込まれている。

ヨハネ・パウロ2世(1920年〜)

ローマ教皇(1978年〜2006年)。本名カルロ・ユゼフ・ウォイティワ。
500年振りにイタリア人以外からローマ教皇に選出された(スラブ系では初)。
幼い頃に母、兄が病死。クラクフのヤギェウォ大学で文学を学ぶが、戦争で閉鎖。まもなく父も亡くし天涯孤独となり、神学校に入る。1958年にクラクフの司教、1967年世界最年少で枢機卿に。1978年ローマ教皇となる。
カトリックの最高権威としては革新的とも言える柔軟な姿勢で、他宗教との融和を試み、世界平和の実現に取り組んでいる。「空飛ぶ教皇」と呼ばれるほど積極的に外国を巡り(世界100か国以上)、81年に日本も訪れている。
地動説や進化論を認め、また十字軍や異端裁判などの歴史的な過ちを謝罪し、ナチズムのユダヤ人迫害を黙認した教会の態度についても謝罪するなど、権威にとらわれない進歩的な人物。

キュリー夫人(1867〜1934)

ポーランド出身の物理学者・化学者。
両親が中学の教師の家庭でワルシャワに生まれる。
25歳でパリに学ぶ。ピエール・キュリーと知り合い、1895年結婚、フランスで研究を続ける。
98年、夫とともに新元素ラジウムを発見、1903年ノーベル物理学賞を受ける。1906年、夫の事故死で、後任としてソルボンヌ大学物理学部の講座を引き継ぐ。11年には、金属ラジウムの分離、精製でノーベル化学賞を受賞。第一次世界大戦中は、移動X線装置による救護活動を組織した。一方、祖国ポーランドでは放射能の研究を展開。32年に人命救助と健康のためのラジウム研究所を設立。
1934年長年の放射能の被爆によって白血病を患い、フランスのサヴォワ地方で死去。墓地はパリのパンテオンにある。ワルシャワの生家は博物館として公開されている。

ニコラウス・コペルニクス(1473〜1543)

ポーランドの天文学者。地動説提唱者。
トルンの商人の子として生まれる。1491年クラクフ・アカデミアで神学、医学、ついで数学、天文学を学ぶ。のちにイタリアへ留学、ボローニャで法律、ローマで数学、天文学を学ぶ。1505年イタリアを去ってハイルスベルグで宇宙系の「地動説」の研究を進める。彼は1530年頃から宇宙系の中心は太陽なりと結論づけていた。しかし、なかなか自らの持論を出版までこぎつけることができず、死の直前に『天体の観測について』が出版されるに至った。
ポーランド・トルンの旧市庁舎広場の一角に銅像がある。市内には生家が博物館となって公開されている。