オーストラリア

オーストラリアの歴史

先住民族アボリジニの社会

4万年前、第4氷河期に東南アジアからオーストラリア大陸へ渡ってきたオセアニア系モンゴロイドが先住民族アボリジニの先祖といわれている。アボリジニは、約1万〜1万5千年をかけて海岸部から内陸へ入り、最南端のタスマニアまで到達した。アボリジニの間では、現在でも祖先がカヌーに乗ってやってきたという神話が伝えられている。他地域で主流となっていた農耕文化が入ってこなかったため、アボリジニは独自の狩猟文化を形成した。ただし、パプア系の人々とは海上交流があり、盛んに貿易を行っていた。

英国による植民地拡大と自治権の誕生

アメリカ独立戦争によって流刑地を失った英国は、アメリカに代わる流刑地を探していた。

オーストラリアに入ってくる白人は流刑囚だけでなく、自由移民(インクルーシブス)のほか、入植が許可されていない地域に無許可で入ってきたスクオッターと呼ばれる人々、流刑囚の中でも特別に解放されたエマンシピストと呼ばれる人々がいた。~スクオッターに対し、政府が未解放の土地での放牧を認可したことにより、スクオッターはさらに増加。結果的に牧羊産業が発展する。

このように18世紀後半から19世紀前半にかけて、オーストラリア大陸全域に英国の植民地が広がった。最初は流刑囚を労働力としていたが、安い賃金で働く安価な労働力として、徐々にヨーロッパ他国やアメリカ、中国などからの入植者が増加していく。

ゴールドラッシュにおける人口増加と白豪主義

19世紀中頃にゴールドラッシュが始まり、各国からの移民をふくめて人口が急激に増加した。なかでも中国人の数は多く、約4万人が移民として上陸。白人労働者は、これら非白人に対する脅威を感じるようになる。
この頃にメルボルン郊外で起こったユーリカ砦の反乱は、労働者たちの政府に対するうっ積した不満が、ある殺人事件の裁判をきっかけに爆発したもの。それは政府が課した採掘許可証の問題にまで発展して、ユーリカの丘に立てこもり、軍隊と衝突した。労働者にとっては重要な歴史的出来事とされる。

オーストラリア連邦の誕生

ゴールドラッシュの後、人々が都市へ戻り、経済が発展したが、1890年代には金融恐慌によって銀行などが多数破綻。大きな打撃をうける。同時に、各植民地間の関税問題や外国に対する防衛問題、増え続ける移民に関する統制など、様々な問題が生じた。これらの問題に対応していくためにも、ひとつの国家として連邦を結成しようという流れが強くなった。

世界大戦と移民増加

多文化国家としての歩み

第二次世界大戦終結後、オーストラリアは経済発展を目的として、英国以外のヨーロッパ各国から、戦災した人をはじめ多数の移民を受け入れた。続いて、中東などヨーロッパ以外からも受け入れをはじめ、1956年にはアジア人でも国籍取得が可能となる。これらをきっかけに、白豪主義ではなく多文化国家として転換していく。