中国/吉林省
集安(しゅうあん/ Jian /ジーアン) †
- 吉林省の南部、北朝鮮と国境を接する鴨緑江の西岸に位置する人口22万の町。
- 高句麗遺跡の中心都市で王陵や古墳がたくさん存在する。
- なかでも彩色豊かな壁画が残されているもの古墳があり、高句麗遺跡見学の価値を高めている。
- 2004年、遼寧省桓仁の五女山山城と共に「高句麗前期の都城と古墳」として世界遺産
に登録された。
この登録経緯にはひと波乱あった。この1年前に北朝鮮が平壌・南浦などにある高句麗後期の古墳群を登録申請しようとした。しかし中国が北朝鮮の単独登録に反対した。
そこで改めて中国側が高句麗前期古墳、北朝鮮側が後期古墳として申請をして、両遺跡が2004年の同時登録という形になった。
北朝鮮の申請には、2000年頃から画家平山郁夫が支援していた。
高句麗遺跡 †
高句麗は、BC1世紀からAD7世紀まで栄えた国.
新羅、百済とともに朝鮮半島で三国時代を形成していた時代に高句麗は、現在の中国東北地方を拠点に吉林省、遼寧省から朝鮮半島北部(現在の北朝鮮)にまで支配領域が及んでいた王国。
遼寧省の桓仁に建国し、3世紀前半からピョンヤン(北朝鮮) に遷都する427年まで吉林省の集安に遷都していたため、集安には当時の遺跡が数多く残されている。
高句麓の都は、平地の時の王の居城と戦時の時の山城を備えるのが基本だった。
集安の場合は、平時の居城が国内城、戦時の時の山城が丸都山城となる。
両方の城の周辺に、多数の王陵、古墳が散らばつている。
古墳の中には彩色豊かな壁画が残されているものがあり、高句麗遺跡見学の価値を高めている。
建国当初の遼寧省桓仁は五女山城が残されており、ここも世界遺産に指定されている。
- 国内城(平城)
集安の鴨緑江畔、通溝河との合流点の東側にある。
長方形で周囲約2.7km。現在は城壁しか残っていないが、かつては6つの門があり、四隅に角楼が設けられていた。
西暦3年、第2代の琉璃明王が、当地が遼寧省桓仁から遷都。
- 丸都山城
集安の西北2.5kmの尾根にある。
西暦3年に築いた高句麗朝前期の都城の守城で、平時は武器や糧秣を貯え、戦時には国内城から王はここに居住を移す。
周囲7km、城壁は切石で築き、東面の完全なところは高さ6m。頂部は広い通路になっていて、外側に姫垣を築く。
城内には斜面沿いに2段に築かれていた大規模な宮殿の跡が残る。
中央の山地の南端に高さ約7mの瞭望台がおかれている。渓谷の景勝を一望することができ、高句麗の墳墓が規則正しく並ぶのを俯瞰できる。
- 広開土王碑(好太王碑)
集安を東北に5km鴨緑江をさかのぼるところにある。
414年に第19代の広開土王を記念して建てた最大規模の太王陵。
広開土王は名を談徳、号を永楽太王、諡(おくりな)を広開土境平安好太王といい、この碑は俗に永楽太王碑・好太王碑ともいう。
高さ6.3mの石柱の4面に1行41字で44行、約1800字の碑文が刻まれている。
高句麗の建国神話、永楽太王の業績の賞賛、330戸の「国煙」と「看煙」、つまり墓守の割当情況を記す。「倭国」(日本)に関する記述も見られる。
高句麗古墳 †
高句麗時代の古墓群は集安の洞溝河の河畔に王墓・貴族墓あわせて30か所以上ある。
規模が大きく、整然と並んでいる墓の数はあわせて約1万にもなる。
集安の高句麗の古墳は、初期は石を積み上げてつくる「積石塚」だが、次第に石室を土でおおう「封土壌」へと変化している。
古墳の副葬品の多くは盗掘されているが、古墳内の壁画が多く残されている。
4〜6世紀にかけて制作されたと思われ、高句麗の社会風俗や墓主の生前の生活、四神図、仏像、神霊、動物など多岐にわたっている。
- 将軍塚
「東洋のピラミッド」と称される。
広開土王または次代の長寿王の墓と考えられている。
7層の階段式の積石塚で、1辺の長さ約32m、高さ12m。
- 五(灰・皿)墳4号墓(ごかいふん)
上部に楽器を持った3人の人物、その下のすみに太陽と月をいただく神の姿が描かれている天井壁画。
- 四倍塚
- 角抵塚
角抵とは相撲のこと。
2人の大男が大木の下で相撲をとっている壁画。
- 長川1号墓:
前室天井の拝仏図と前室北壁の百戯伎楽狩猟図。