オーストラリア

オーストラリアと日本との関係

日本とオーストラリアの外交関係は大きな問題はなく、非常に良好である。
資源が豊富なオーストラリアと、技術に優れ製造業を得意とする日本は、貿易面で相互に補完性のある絶好の関係にある。現在、日本からは主に自動車を輸出。石炭、液化天然ガスなどのエネルギー関連や肉類などを輸入している。
自衛隊のイラク派遣で、サマワで警護にあたっているのはオーストラリア軍であることも覚えておきたい。

両国の交流は、1854年の日英和親条約締結以降となる。記録に残っているオーストラリアに最初に現れた日本人は1867年にメルボルンで公演した曲芸団12名である。
大規模な移民は木曜島(クイーンズランドの北部ヨーク岬半島沖)への真珠貝採取ダイバーの技術移民から始まった。彼らの潜水技術は評価が高く、1880〜90年代にはダイバーたちがブルームやダーウィンなどに数百名移住している。
さらにクイーンズランド州のサトウキビ農場にも約千名の日本人が労働者として渡っており、1896年にはタウンズビルに領事館が開設された。

しかし、20世紀に入るとオーストラリアはアジア移民の受け入れを中止。日露戦争(1904〜1905)に日本が勝利すると、アジアに接するオーストラリアにとって、日本の存在は脅威となってきた。日本とオーストラリアは第一次世界大戦では同盟国となり、軍事的な協力が行われたものの、第二次世界大戦では敵対関係となる。
1942年2月、日本軍はダーウィンを空爆し、多数の死傷者を出した。また、同年、小型潜水艇がシドニー湾まで侵入。オーストラリアの国土の防衛は深刻な問題となり、日本人移民たちは強制収容所に送られることとなった。一方、連合軍側としてマレーシアやビルマ戦線で日本軍の捕虜となったオーストラリア兵は、タイのクワイ川鉄橋建設などの過酷な労役を強いられたりした。そのため、結果的には戦勝国となったものの、オーストラリアが日本に対して持つ被害者意識は小さくない。

戦後、英連邦軍の一員としてオーストラリア兵も日本に約11年間駐留した。その間に日本人と結婚した兵士も少なくない。その妻たちが戦後のオーストラリア移住の先駆けとなったのである。そして、1957年に日豪通商協定が結ばれると、両国間のビジネスは本格的に再開された。先に述べたように両国は貿易相手として絶好の関係にあり、急激に取引額が拡大していった。しかし、国内資源や産業の保護の観点から障害が生じ始めると、両国の関係をより緊密化させていくために、1976年に日豪友好基本条約(NARA条約)が締結されることとなった。
この頃から経済面だけではなく、文化面の交流も活発となり、人の行き来も多くなった。ワーキングホリデー協定を交わし、1980年からは両国の若者が働きながら滞在し、理解を深められるチャンスも得られるようになった。観光旅行でもオーストラリアは、南半球の魅力的かつ安心して楽しめるデスティネーションとして定着し、特にハネムーンや家蔵旅行で定番のひとつになっている。また、近年では、高齢者の長期滞在先としても注目されている。

オーストラリア側にとっては日本人からの観光収入は非常に大きなものである。日本人旅行者の割合が非常に高いケアンズは日本企業が観光開発に着手し、小都市ながら国際線がデイリーで発着するという特異な状況となっている。バブル期にはゴールドコーストのゴルフコースやコンドミニアムなどの不動産を日系資本が買い漁ったが、景気の後退ともに撤退が相次いでいる。逆にここ数年、北海道を訪れるオーストラリア人スキー客が激増している。良質なパウダースノーが高い評価を受けている。今やニセコを訪れるオーストラリア人は年間1万人に届こうかという勢いだ。オーストラリア側からの不動産投資が進み、スキー場の買収や分譲型コンドミニアムの建設が進んでいる。オーストラリア人にとっても日本は、欧米よりも近く、時差がなく、治安がよく、しかも季節が逆で自分の国ではオフシーズンのスポーツが楽しめる魅力的なデスティネーションなのである。