概要 標高152m。人口約24000人 小さなこの町を有名にしているのは、毎年5月の第3日曜に行われるインフィオラータIntiorataだ。 インフィオラータとは「花を敷き詰める、花絨毯」のことで、旧市街のヴィットリオ・エマヌエーレ大通りいっぱいに色とりどりの花びらを下絵に沿って敷き詰めて完成ささせたもの。 ヨーロッパだけでなく、世界中から観光客が集まる一大イベントである。 1693年1月11日、イタリア半島南部からシチリア島東部にかけて巨大地震が発生、死者は10万人を越え、ノートの町を含め、多くの周辺の町が全壊した。 当時はイタリアは都市国家で、中央政府がなく、復興も町の人々の手で推し進めるしかなかった。 住民たちはこの古い町を完全に放棄し、古い町に代わる新天地の建設をしようと、貴族も市民もー丸となり立ち上がった。、 ここから南東約10kmの丘の上に、約50年の年月をかけて当時はまだ目新しいバロック様式で新しい町づくりが行われた。 それが現在のノートの町である。 廃墟と化した古いノートの町は草木に埋もれて眠つている。 しかし、ノートの人々の世代が変わり、新しい町の重要な建築物の多くは、何十年間も放置されたうえ、たびたび小地震に襲われて荒廃の状態にあった。 1996年初めには壮麗なバロック様式の大聖堂のドームと屋根が崩れ落ち、町の人々に衝撃を与えた。 地元では屋根にひびが入っているのを知りながら、何の手も打っていなかったという。 教会のドームの消失で町の景色はすっかり変わってしまった。現在、大聖堂の建物を安定させる大規模な工事が進められている。 大聖堂やその他の重要な建物を修復するための多くのプロジェクトが進行中である。 震災で崩壊した地で新しい町づくりへの人々の努力が報われ、2002年シチリア東部のノート、カルタジローネ、ミリテッロ・イン・ヴァル・ディ・カターニア、カターニア、モディカ、パラッツォーロ・アクレイデ、ラグーザ、シクリの8つ町は世界文化遺産に登録された。 アクセス 公共バス: カターニアやシラクーザからバスで行ける。 シラクーザからは、毎日2本(午前、午後各1便)運行している。 所要45分) ノートの町の入り口、ヴィツトリオ・エマヌエーレ大通りCorso Vittorio Emanueleの起点にある、レアレ門Porta Realeに停まる。 ノート=ノート・マリーナ間は6〜8月のみ、頻繁に運行する。 市街地 この町を貫く主要道路はウィットリオ・エマヌエレ大通り Corso Vittorio Emanuele。 バロック様式の建物が並び,途中2つの広場と出合う。一直線に延びる大通りの始点に,レアーレ門 Porta Realeが堂々と構えている。 ほとんどの重要な歴史建造物が、ヴィットリオ・エマヌエーレ大通りに並んでいる。 毎年5月の第3日曜には、春の訪れを祝う祭り、インフィオラータIntiorataでヴィットリ オ・エマヌエーレ大通りは花の海と化す。それぞれの屋敷の凝った彫刻が施されたバルコニーには、その祭りを祝って、それぞれケンタウロス、馬、ライオン、セイレーン、悲劇の仮面などをあしらった飾りつけがされる。 ヴィットリオ・エマヌエーレ大通りの中ほどのセデイチ・マワジョ(5月16日)広場 Piazza XY Maggioには、 美しく飾る19世紀の庭園には,バロック様式のヘラクレスの泉がある。これはノート・アンテイカにあったもので、その上に18世紀の彫像が置かれている。 広場に面してサン・ドメニコ教会Chiesa di San Domenicoとその隣にドミニコ会修道院が建っている。いずれも町の再建に大きく貞献したシチリアの建築家ロザリオ・ガリアルディによる設計となる。 さらに先に進むと、ムニチビオ広場 Piazza Municipioが現れる。広場にある幅広の階段の上に建っているのが大聖堂 Duomoである。 大聖堂の隣はランドラータ館 Palazzo Landorataで、今は放棄されているが、ノート最古の貴族サンタルファーノ家の建物である。 広場の反対側には、ドゥチェツィオ館 Palazzo Ducezio(市庁舎)がある。 ヴィットリオ・エマヌエーレ大通りをさらに進むと、サンティツシモ・サルヴァトーレ教会 Chiesa del Santissimo Salvatoreがあり、隣接して修道院がある。教会の内部はノートで最もすばらしいとされる。 見どころ レアーレ門 Porta Reale: 町の入り口にが堂々と構えている。 1838年にブルボン家のフェルディナンド2世をたたえて建設された門である。 サン・フランチェスコ・アッリンマコラータ教会 S.Francesco all'Immacolata 1704〜45年にヴィンチェンツォ・シナトラ Vincenzo Sinatraの設計で建てられたもの. 内部の主祭壇に,ノート・アンティカ 〈旧ノート〉Noto Anticaから移された16世紀の木製の聖母像がある)。この教会の左側に延びた,付け柱が2層に並ぶファサードは,サンティッシモ・サルヴァトーレ修道院 Monastero di SS.Salvatore 1706年)のもので,この建物には上部が開廊で先端にピラミッド状の尖頭が施された塔がある。通りを挟んだ向かいは,ロザリオ・ガリアルデイ Rosario Gagliardiの設計に基づき1719〜58年に建てられたサンタ・キアラ教会 S.Chiara)。内部は楕円形プランで,アントニオ・ガジーニAntonio Gaginiの作とされる聖母子像(左第2祭壇)がある。 ヴィッラドラータ館 Palazzo Villadorata(ニコラーチ館Palazzo Nicolaci) 鉄製のバルコニーを支えるファサードのグロテスクな像で知られている。内部の色彩豊かな錦織の壁掛けやフレスコ画が描かれた天井が見どころ。だ。 かつてヴィッラドラータ家の公子たちの屋敷だったが、現在は一部、市庁舎および公共図書館として使われている。 ドゥチェツイオ館 Palazzo Ducezio(市庁舎) ムニチビオ(市庁舎)広場 Piazza del Municipioで、町の中心となる広場。 バロック様式で統一された町の景観のなかに,18世紀の優美な建築がアクセントとなっている広場。 ドゥチェツイオ館は広場の南側に単独で建ち.三方を円柱列の長い開廊で取り巻かれている。現在は市庁舎だが、修復中。 この建物はウインチェンツォ・シナトラの設計で1746年に建てられ,1951年に上階が増築された。 大聖堂 Duomo ムニチビオ(市庁舎)広場に面している。 その向かいの.3段階に分かれた舞台装置さながらの階段を上るとドゥオーモDuomoがある。完成は1776年頃で,2層のファサードの左右に2基の鐘楼を配する(ブロンズ製扉は1982年ジュゼッペ・ピッローネGiuseppe Pirrome作)。内部は.翼廊を備えた三廊式になっている。ただし,たため,現在は使用不可能である。 1693年の大地震後、新しい町づくりを急いだ人たちが、1776年に完成したものの、その後管理・修復も十分せずに放置し、 長い間、柔らかい地元の白い凝灰石を建材として使っていて恒常的な維持管理が必要なのに十分な修復もしないまま、遂に1996年3月13日にクーポラと身廊郡の天井が崩壊してしまった。 町の人々にはおおきな衝撃を与えた。 その他の重要な建物も含め、修復するための大規模なプロジェクトがしんこうちゅうである。 ランドラータ館Palazzo Landorata 大聖堂の隣に位置するノート最古の貴族サンタルファーノ家の建物である。 サンティツシモ・サルヴァトーレ教会 Chiesadel Santissimo Salvatore 教会の内部はノートで最もすばらしい。 隣接して修道院が立っている。修道院は地元貴族の娘たちのために使われた。 修道院の隣には、1840年に馬車が楽に通れるように道路を低くしたときに、工事をし直さなかった噴水が、壁に吊り下げられた格好で残っている。 サン・ドメニコS.Domenico教会 1703−27年建造。凸状に湾曲した正面がある。この教会はロザリオ・ガリアルデイの作品で,シチリアにおける18世紀バロック様式の最も重要な作例のひとつに挙げられる。 集中式の内部と5つのクーポラも興味深い。 教会の隣には,切石積みの大きな扉口(1727年)をもつ旧ドメニコ会修道院 Conventodei Domenicaniがある。 市立劇場Teatrocomunale 5月16日広場に面している。 寓意像と,苦楽のテーマが絡み合う浅浮彫りで飾られたがある。ここから少し離れた所に,18世紀後半に建てられたカルミネ教会 Chiesa del Carmineは,3層に分かれ凹状に湾曲する正面をもつ。 カルミネ教会chiesa del Carmine 5月16日広場に面している市立劇場の裏手のドゥセチオ通り Via Ducezioを西方向に少し歩く。。 18世紀後半に建てられた。 3層に分かれ凹状に湾曲する正面をもつ。 モンテヴェルジニ教会: この通りはウィットリオ・エマヌエレ大通りからカウール通りvia Cavourに至る直線の上り坂になっているニコラチ通りVia Nicolaciの坂の突き当走りにある 両側に2基の鐘楼を配して湾曲する凹面のファサードを持つ。 カステッルッチョ館 palazzo Castelluccio カヴール通り10番地 Via Cavour 10 カヴール通りはウィットリオ・エマヌエレ大通りの山の手側をこれに並行して走っている通り。 18世紀の邸館,教会,修道院が建ち並ぶ興味深い通りである。 なかでもこのカステッルッチョ館は注目すべきもので、1782年の古典主義的な建物。 旧サン・フィリッボ・ネーリ祈祷堂oratorio di S.Filippo Neri 1749〜52年 カヴール通り Via Cavour ニコラチ・デイ・ヴィッラドラータ館 Palazzo Nicolaci di Villadrata: カヴール通り Via Cavour 1737年の建造になる。 直線のバルコニーは,グロテスク文様を施した石造りの大型持送りに支えられている。この館の翼棟に市立図書館がある。 アストゥート舘 PalazzoAstuto カヴール通り54番地 Via Cavour 54 美しいパロック様式のバルコニーが際立つ()。 トリコーナ・カンニカラス舘 Palazzo Trigona Cannicarao カヴール通り93番地 Via Cavour 93 フレスコ画装飾の広間を持つ。 サンティッシモ・クロチフィッソ教会Chiesa del SS.Crocifisso: 町の山の手に建つこの教会は,ロザリオ・ガリアルテイが手がけたとされる。未完のファサードは,1955年に不当に手が加えられた。内郭には,右翼廊の祭壇にフランチェスコ・ラウラーナFrancesco Laurana作の聖母子像(1471年)通称「雪の聖母Madonna de11a Neve」,ノート・アンテイカから移された石作りの1対のライオン像の円柱支え,後陣にロザリオ・ガリアルテイの設計に基づき18世紀半ばに制作された彫刻装飾に金箔を張つた木製十字架がある。左翼廊の礼拝堂には,聖スピーナS,Spinaの聖遺物を収める金の聖遺物箱が残っている。 近郊 アヴォラ Avola ノートの北東に5.5km。 1693年の地震により古い住宅地区(ここから北西へ8.5km)が壊滅したため,ここに六角形フランに基つ<新しい町が建設された。当地は農業の中心地であり,18世紀の建物(アヌンツィア一夕教会chiesa dell'Annunziataとマードレ教会chiesa Madre)やリバティ様式の建物がある。 リド・デイ・ノート Lido diNoto ノートの南東へ8km。 ここは広々とした砂浜の海水浴場。南西のテッラーロTellaro川の河口の近くに,シラクーザの住民が(前8〜前7世紀に)建設した都市エロ一ロの遺跡rovine dj Eloro(見学は9時〜14時)がある。 おもな遺跡は,前4世紀の工事の跡が詠められる前6世紀の要塞の一部,南北に走る主要道路,柱感付き建物のある市民広場,劇場,宗教建築(おそらくアエスクラビウスの至聖所)など。城壁の外にあるデーメテルとコレの神殿は,前6世紀に建てられ,前4世紀に再建されたもの。パキーノPachinoに通じる道路に戻り,テッラーロ川の右岸に出ると,高台に4世紀のテツラーロの古代ローマの別荘villa romana del Tellaroがある。 ここから彩色モザイクの舗床が出土した(シラクーザ考古財監督局で管理)。 ノート・アンティーカ Noto Antica 標高409m ノートから北西へ10km。ギリシャとローマの時代に繁栄したこの町は,アラブ占領時代には要塞都市となり,1693年の地震で壊滅してからは廃墟と化した。 考古学地区では,前9〜前8世紀のシプリ人の展墓遺跡や,ヘレニズム時代の建物と城壁,初期キリスト教時代の地下墓所が発掘された。 生い茂る草木のなかに,ギユムナシオン(体育錬成場)や古代の神殿のわすかな遺構や,中世の城跡(11〜14世紀),その他の廃墟が散在する。 カステッルッチョの先史時代の村villaggio preistorico di Castelluccio ノートから北西へ23km。 まずイスピカIspicaへ向かう道路を進み,途中でジッラターナGirratanaおよぴパラッツォーロ・アプレイデPalazzolo Acreide方面へ右折する。 中世の城跡に近い孤立した丘の原上に,先史時代の定住地(前17一}前15世紀)の遺跡がある。石灰岩の切羽に,人工の小洞窟式墓地が約200も□を開けている。 ノートの谷Val di Noto アラブ時代にはシチリア全土を3つの谷に区分していた(残りの2つはマザラMazaraの谷とデモーネDemoneの谷)。 この地域は,イオニア海に突き出たパッセロ岬capo PasseroからシメートSimeto川の河口(カターニアcataniaの南)に至る海岸と,同岬からサルソSalso川(リカータLicata)に至る海岸を含む島の南東部を指す。 内陸部の境界線をなしていたのはシメート川に続<ディッタイノDittaino川と,もう一方のサルソ川の流れである。この2つの川はカルタニセッタ山caltanisettaとエンナ山Ennaの中間地点で出合い,荒々しい山の斜面を擁して直角を描いている。 |