モンモランシー Montmorency
概要
パリの北約15㎞にある静かな町。
モンモランシーの森の南端の入口に位置する丘の急斜面に市街が広がる。
ここには、ジャン=ジャッグ・ルソーが数年間住んだ家が残っている。
その家(モン・ルイ館 maison du Montlouis)を市が買い取り、博物館が公開されたのは1952年。以後、改修と家具・備品の蒐集を経で、18世紀当時のルソーの暮らしを彷彿させる空間が復元された。
博物館は当時のモン・ルイ館と、19世紀に建て増しされた棟からなる。
アクセス
車で行かないと、とても不便だ。
最寄りはアンギャン・レ・バン駅。
パリ北駅からSNCF H線ValmondolsまたはPontoise行きでアンギャン・レ・バン駅 Enghien-les-Bains下車、
バス15番でHotel de Ville下車か13番線でRey de Foresta下車。
見どころ
ルソー博物館 Musee J-J Rousseau
フランス革命と人権宣言に影響を与えた哲学者ルソーは、1712年にジュネーブで生まれた。「エ、ミール」や「告白」などの著者で、作曲家でもある。生後すぐに母親を亡くし、10歳で父親とも別離を余儀なくされた彼は、転々と住む地を変える放浪の人生を歩んだ。
パリでディドロなど百科全書派の哲学者と親交を結び、38歳の時に論文が入賞して名声を得る。
オペラ「村の占い師」はルイ15世の前で演じられたが、ルソーは国王の謁見と年金を辞退し、「人間不平等起源論」などに表される独自の政治・社会思想を深めていく。
いつも文人たちに取囲まれていた社交界の貴族婦人デピネー夫人 Mme d'Epinayの誘いを受け入れて、彼は夫人の私有地に建っていた「エルミタージュ L'Ermitage」に住むことになった。(その後この建物は取壊されている)。
洗濯女のテレーズ・ルヴァツスールが伴侶として一緒に暮していた。彼はのちに彼女と結婚することになる。
ルソー44歳。疑い深く怒りっぽい性格、病的な感受性が周囲の人々をてこずらせていた。
ある時、彼は突然、デピネー夫人の若い義妹ドゥドト夫人に熱烈な恋慕を抱く。
執筆中の「新エロイーズ」のヒロイン、ジュリーに彼女の存在が重なる。恋愛と感受性を讃歌したこの小説はベストセラーになり、後のロマン主義文学に影響を与えた。
それはドゥドト夫人への片思いにすぎなかったが、これによりデピネー夫人とも不和となり、デピネ夫人や親友ディドロとの訣別を導き、1757年、ルソーは「エルミタージュ」を出ていかざるえなくなり、ル・モン=ルイの家 maison du Montlouisに引越す。
ここは、リュクサンブール元帥のもので、リュクサンブール元帥夫妻はモンモランシーに邸館を所有していた。その広大な庭園は当時のまま残っているが、建物は近代の館に代っている。
再現された彼の部屋の台所や寝室に入ると、それがいかに慎ましい生活だったかに驚かされる。暖炉で料理を作りロウソクの灯に頼り、生計の写譜にいそしむ毎日だった。
庇護者のリュクサンブール元帥が修繕させる前は、庭の奥の高みにある書斎には扉さえなかった。
ごの小部屋の窓からは遥かパリまで見渡せるが、当時、辺りは森と田園だけだった。ルソーが菩提樹の木陰で読書や訪問者との会話を楽しんだ庭には、石のテーブルとベンチが今も残り、彼が好んだツルニチニチソウが花を咲かせる。自然に溶け込んだ素朴な暮らし
の中で、自らの信条「真実に人生を捧げる」を実践していた。
パリの喧噪と社交界から逃れてモンモランシーでルソーはここで1756~62年間暮らしていた。かれはここで「新エロイーズla Noovelle-Heloise」を書き、さらに「エミー儿 Emile」と「社会契約論 le Contrat social」を刊行する。この3作はいずれも彼の主要著作に数えられる。
1762年、パリ高等法院は「エミール」の焚書と、破壊思想を含むこの書物の著者の逮捕を決定した。事前に情報を得たルソーは、高等法院の逮捕状が届く寸前に元帥夫妻の仕立てた馬車でスイスに逃亡した。
逃亡したルソーは以後、迫害されている被害妄想に苛まれた放浪の晩年を送ることとなった。
入場料には、フランス語のガイドとオーディオガイド込み。18歳以下無料、
10月まで火~日14-18h。 11月以降冬期は火~土。5月1日、11月1日、年末2週間閉館。
ガイドつき見学の最終回の開始は、17h15.
5 Rue Jean-Jacques Rousseau 95160 Montmorency fr
Tel 01 3964 8013 http://museejjrousseau.monmorency.fr
そのほかの見どころ
サン・マルタン参事会教会 Collegiale Saint-Martin
1563年にギヨーム・ド・モンモランシーに
よって着工、フランボワイヤン・ゴシック様式の教会。
完成したのは、大元帥の地位についた彼の息子の代であった。モンモランシー家の人々はこの礼拝堂に葬られた。