概要 | |
(バイエルン州) 人口:約75000人 -ニュルンベルグの北約70kmのフランケン地方の都市。 -夏の7-8月を除けばなんていうことはない緑深いごく普通のひっそりとしたドイツの田舎都市なのだが、オペラファンにとってここほど有名は町はドイツで他にないといっていいほどだ。 ここは夏の「バイロイト音楽祭」のためにある町といっても過言ではない。 期間中の席数6万以下の音楽祭をめぐって、60万人を超える熱烈なワーグナーフアンが切符獲得を争っているのは、毎年の恒例である。 実際にこの音楽祭に世界中から訪れるオペラファンが、いくらでチケットを購入したかは、全く分からないところだが、ウイーンのニューイヤーコンサートの比ではない。 -当然のことながら、ホテルもこの時期は音楽関係者のための押えられてしまっていて、一般の旅行者には全くお呼びでない。 -世界中のワークナー愛好家の巡礼地となったこの地は春か秋に訪れることをお勧めする。 音楽祭が行われる辺境伯歌劇場、祝祭歌劇場やワーグナー博物館など音楽ファンにはたまらない魅力のあるところがゆっくり見学できる。 -例年、5-6月にはオペラやバレエのフェスティバル、フランケン音楽祭Frankische Festwocheが開催される。こちらはワーグナーの作品だけのバイロイト音楽祭とは違う。 |
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アクセス | |
鉄道 ニュルンベルグNurnberg Hbf.から約1時間。1時間間隔。 日本から直行する場合には、フランクフルト便と、ミュンヘン直行便どちらも同じような距離になる。 フランクフルト空港駅Frankhurt Flughafenからは、ニュルンベルグまで直行便が中央駅Frankhurt Hbf.経由で2時間30分。1時間間隔。 ニュルンベルグNurnbergからは快速または普通で1時間1。ほぼ1時間間隔。 ミュンヘンからもバイロイトはニュルンベルグ乗継となる。 ミュンヘンからニュルンベルグまでは特急ICEで1時間10分、15-30分間隔。 日本から直行する場合には、空港駅Frankhurt Flughafenから直接鉄道を利用できるフランクフルトの方が便利だ。 |
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バイロイト音楽祭が誕生した経緯 | |
バイロイトは1603年以来、ブランデンブルク・バイエルン辺境伯が住むひっそりした静かな田舎町ではあったが、18世紀にはいって突然黄金時代に入る。 その立役者はフリードリヒ辺境伯の皇女ヴイルヘルミ−ネ(1709−1758)である。 プロイセンのフリードリヒウィルヘルムー世を父に持つヴイルヘルミ−ネは兄フリードリヒ大王同様、彼女自身も王位継承権をもっていた。彼女はイギリス王室へ嫁ぐ予定をしていたが、意に反してフリードリヒ辺境伯との結婚を強いられた。 しかし夫のフリードリヒ辺境伯が凡庸な人間だったため、知性豊かな彼女は周囲の才能豊かな人々に関心を寄せることになったのだった。 そして、ヨーロッパ最高の芸術家、詩人、作曲家、建築家を宮廷に呼び寄せるために、 ここをヨーロッパ屈指のバロック・ロココ都市にしようと、新宮殿や辺境伯歌劇場など積極的に街づくりを始める。 彼女は文才もあり、建築にも造詣が深く、音楽芸術の愛好家であると同時に学問・芸術の庇護者(メセナ)でもあった。 彼女が亡くなる頃には、バイロイトの町はヨーロッパでも屈指の建築物のある都市となっていた。 そんなバイロイトが、自分の作曲した作品を思う存分演奏してくれと懇願されていたのがリヒヤルト・ワーグナー(1813〜83年)で、のちににここで演奏会を行ったのが、その後のバイロイト音楽祭のきっかけとなった。 そのころワーグナーは新しい音楽ジャンルの創始者として各地で活動を続けながら、自作の上演に最もふさわしい場所を探していたが、1872年バイロイトからの誘致を受けてここを選んだ。 ご寵愛を受けていたバイエルン王ルートヴィヒ2世の要請を受けて祝祭劇場Festspielhausの建設が進められ、1876年に「ニーベルンゲンの指輪」でこけらおとしが行われた。 ワーグナー自身が築き上げた伝統は、その死後もコージマの熱意で守られ、その後も息子のジークフリートに引き継がれた。さらに孫のウイーラント(1966年没)が新感覚による一新を計り、現在はヴオルフガンク・ワーグナーが受け継いでいる。 毎年、世界各国から集まる一流の演奏家たちが、ワーグナーの作品を上演して聴衆を魅了している。 |
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見どころ | |
リヒリャルト・ワグナー祝祭歌劇場 Richard Wagner Festspielhaus 1872年に建てられた。 ワーグナー自らがドラマの展開そのもののために、音響、視覚効果に設計上の配慮が結集されているといわれる世界最高水準に達する木造建築の劇場。 音響設備についての配慮は座席の材質にまでおよんでいて、クッション類は一切なし。 収容人数はわずか1900人。 毎年おこなわれるワーグナー音楽祭の会場でもあり、期間中はその関係者見物人を含め10万人を越える人々が訪れる。 ワーグナー記念館(RichardWagner Museum: この建物はヴアーンフリート館Haus Wahnfried(至上の平和)と呼ばれ、ヴアークナーが1874年以降住んでいた家。 現在は最も重要な記念の地の一つになっている。 唯一ファサードだけが、建設当初のものである。 家具、自筆楽譜、ピアノ、写真、デスマスク、衣服、日常品などの展示品を通して、大作曲家の生活と作品、それにバイロイト音楽祭の歴史(祝祭劇場の建設、舞台装置、衣装)が紹介されている。 円形建物の向かい側、庭園の奥に、リヒヤルトとコージマの墓があり、シンプルな平墓石が前庭の境界に置かれている。 辺境伯歌劇場 Markgrafliches Opernhaus: 1745年から48年にかけて皇女ヴイルヘルミーネが造らせた建物。 イタリア・ボローニヤの建築家ジョゼッペ・ガリによりデザインされたもの。 重々しいファサードは、18世紀の一般家屋に挟まれた形になっているが、中央棟は張り出して、最上階がバルコニーの上に立つ4本の柱で区切られている。 劇場内の室内装飾は、一面、彫刻や金箔や大理石模様が刻まれた木材で覆われた豪華絢爛な造りになっている. イタリア・ボローニヤの建築家ジュゼッペとカルロ・ガルリ・ピピエーナのデザインによるものとされる。 赤、緑、莱のトーンが、柱やボックス席、メタイヨンやシャンデリアなどに絡み付くように施された金色のスタッコ装飾に映えている。 リヒヤルト・ワーグナーは、自分の作品に、この歌劇場は合わないと考え、ここで指揮を取ったのは1回きりとなった。 このバロック宮廷劇場は、ドイツで最も保存状態のよい劇場の一つである。 5〜6月のオペラやバレエのフェスティバル、フランケン音楽祭の開催場所となっている。 新宮殿Neues Schloss: ポツダムのサンスーシ宮殿にもまさるものをと造営させたもので、建設期間わずか2年で完成した。 外装は控えめな造りだが、室内装飾はロココ様式の優美この上ないもの。 住居棟は、ヴイルヘルミーネ好みの軽やかな花咲く壁面。 ヴイルヘルミーネがとくに装飾に力を注いだのは鏡の間、日本の間、旧音楽の間などである。 北翼1階には、バイロイト音楽祭の、来賓専用オープニング祝賀会が行われるシダー・ルームCedar Roomがある。 この部屋は、18世紀にバイロイトで作られた磁器バイロイト・ファイアンス焼きの博物館Museum Bayreuther Fayencenとなっている。 宮殿に続いて、広大な王宮付属庭園がある。 城の教会 Schlosskirche: 1756年築。 単一の身廊、ぱら色の塗装、スタッコ装飾はペドロッツィ作。 階上席の下に閉ざされた礼拝室があり、そこにフリードリヒ辺境伯とヴイルヘルミーネ、それに彼らの娘の墓所がある。 エレミタージェ城 Schloss Eremitage: 東へ4km。 旧宮殿Altes Schlossの敷地内にある。 旧宮殿は1715年に建てられ、ヴィルヘルミーネ皇女が夫から贈られた宮殿で、夫妻はここで夏を過ごすようになった。 その後、1735年に、ヴイルヘルミーネが改造させた。 中国式鏡の間 Chinesisches Spiegelkabinettは奇抜な趣のある部屋だ。 ヴイルヘルミーネはここで回想録を書いた。ロココ様式にどっぷり浸かった部屋と、一部だが禁欲的で質素な部屋もある。宮殿内でもひときわ美しい日本の小部屋JapanischerSaalは、優美な調度品とアジアの宝物でいっぱいだ。 中庭に面して口を開けている不思議な下の洞窟と、フリードリヒ辺境伯のあずまやに注目。やや離れて古代劇場の遺跡があるが、これは1743年に建てられたもの。 宮殿は幾何学模様の花壇に囲まれている。 半円形をなす新宮殿Neues Schlossは1945年以後に修復されたもので、中央にある太陽の神殿には馬車に乗ったアポロンの装飾が施されている。 |
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