台湾誕生の歴史

18世紀頃までは、中国の一部として支配を受けていた。
一時、オランダやスペインの植民地であったりもした。

以前より、中国大陸の福建省あたりから中国人(漢人)が入植していたが、中国の清の時代になると、国の政策もあり中国本土からの移住が一段と進んでいた。
もともと台湾には10余りの少数民族が居住していたが、移住の増加で人口の大半は漢人が占めていた。

19世紀末に、日本が日清戦争に勝利し、台湾の統治権を得ることになり、これ以後約50年間、台湾は日本の植民地となっていた。
日本の統治に対して、当初は最初の約5年間は台湾住民の抵抗が強く、紛争が続いていた。
やがて治安が安定すると、日本は台湾の公共インフラの整備や、教育の普及、治安の維持に力を注ぎ、台湾人の日本同化政策を進めていった。これにより台湾での学校教育は日本語で行われることになり、この時代に学校教育を受けた世代は、日本語を話すことができるようになっている。

第二次世界大戦で日本は敗戦し、日本領土は連合国軍の占領地となり、台湾の領有権を放棄した。
そして、連合国側にあった中国がその領有権を得ることとなった。

中国大陸では、1911年から蒋介石率いる国民党が代表政権となり、中華民国を樹立していた。したがって、台湾は国民党政府が、日本に代わり台湾統治が始まりまった。
この終戦時には中国国内は毛沢東率いる共産党と内戦状態にあった。
1949年 国民党軍は、中国大陸を追われ、蒋介石総統とともに、台湾に亡命した。
中国では、中国共産党の中華人民共和国が成立し、毛沢東が主席に就任した。
こうして、台湾は中華民国となる。

台湾に進駐してきた国民党軍兵士は統治意識が低く、横暴で略奪や暴力行為が絶えなかった。日本が統治していた時代からいた台湾人たちは、こうした国民軍の野蛮行為に苦しめられていたため、日本の旧植民地でありながら、現在も、日本に対する国民感情が比較的いいという状態にある。
蒋介石総統は、台湾の日本色を排除する政策し、学校では地元の台湾語も排除し大陸の言葉である北京語による教育になり、日本語は禁止された。
そして、徹底した反日教育を進めていった。こうした独裁的政権の反発する国民感情を抑えるために、台湾全土に戒厳令が実施され、夜間の外出などはできない状態が続いていた。
蒋介石の息子の蒋経国総統の頃になると、国民の所得水準の向上により、政府による国民の批判を抑制することが難しくなり、ついに40年の間続いた戒厳令が1987年7月15日に解除された。これにより、台湾の自由化が始まった。

1970年代になって、中国大陸では中国共産党の支配による国としての体裁が整ってきたこともあり、国連は、中華人民共和国を中国を代表する国家として承認することになった。中華民国は中国の中の台湾という一地方と位置付けられる。

しかし、自由化後の台湾の経済の発展は目覚ましく、一時は外貨準備高が世界一になり、ハイテク産業を中心にした莫大な投資を行うなどで、以後世界の先進国になっている。