烏山頭水庫(ウサントウダム/Wusanto Dam)


概要

烏山頭フォト

台南郊外にあり、日本と深い縁のある湖である。
広さは1300ヘクタール、日本の諏訪湖とほぼ同じ大きさ。
嘉南平原の農業灌漑のために作られた人工湖で、日本統治時代の1920年から1930年までの10年の歳月を経て竣工されたもの。

このダムは曽文川の支流である官田川をせき止めて造られ、流域面積は約60平方キロメートル、湛水面積は13平方キロメートルである。

烏山頭水庫から眼下に広がる平野には総延長1万6000㎞に及ぶ給水路が細かく張り巡らされている。これによって、それまで夏は洪水、冬は干ばつに苦しんでいた不毛の地は実り豊かな豊饒の大地へと生まれ変わり、嘉南平原は台湾最大の穀倉地帯になった。

この工事の設計・監督を務めたのは、日本人八田與一だった。
1886年石川県生まれの八田與一(1886~1942年)は東京帝国大学土木科を卒業後、台湾に渡り、34歳でこの工事を任された。10年に及んだ大工事は困難の連続だった。中でも最も大がかりだったのが、高さ56m、長さ1273mに及ぶ堤防の造成だった。
大幅な予算の上昇で日本政府は、この工事の中断もやむ負えないと考えていた。しかし、八田の説得の努力により増額が認められ、工事を続行していった。

八田はベルギー製の大型蒸気機関車12両を導入して、ついにこの難工事を成し遂げた。当時東洋一の規模を誇る貯水湖を完成させた。巨大な堤防は今も湖の水をせき止めている。

この堤防にはほとんどコンクリートを使わない当時世界最先端の技術が使われた。
水庫を見下ろす高台に八田與一の銅像がある。地元の人たちによってずっと守りつ図蹴られている。
独特の姿は工事現場で考え込んでいた時の八田の様子を再現したものである。
八田は考えをめぐらす手いるとき、指で髪の毛を巻くのが癖だったという。現場の人たちにも分け隔てなく接し、その人柄が愛されていた。 八田與一の銅像は戦時中、軍により武器製造のために収容しようとしたが、地元に人たちは密かに銅像を隠しておいた。
そして戦後もしばらくは敗戦国日本のことは語ることが出来なかったため、そのまま隠し続けていた。
やがて、李登輝総統の時代になり、台湾の歴史を公平に見るように、戦前の日本人の貢献が高く評価されるに至り、八田與一の功績も評価されるようになって、地元の人々も銅像を元あったところに据えることとなった。さらに周辺の整備が進み現在はリクリエーションエリアとして整備されている。

当時、八田は家族が住んでいた家が再建されている。八田記念公園。生前の様子そのままだという。彼の書斎には、工事中の烏山頭水庫の絵が飾られている。

日本では八田氏のことはあまり知られていないが、司馬僚太郎の台湾紀行に詳しく記載されている。

アクセス

高速鉄道嘉義駅から車で約1時間20分
見どころが点在しているので、タクシーなどをチャーターする方がいい。

烏山頭地図

1,八田與一記念公園
八田與一記念公園に建物が4棟ある。市川及び田中宅、八田宅、赤堀宅、阿部宅と名づけられている。烏山頭ダム工事中に宿舎など建設された関連施設を再現した宿舎である。記念公園には和風に満ちており、観光客が園区に入れば、まるでタイムマシンに乗っているように昔の雰囲気が感じられる。尚、展示館に八田與一技師の生涯と貢献が紹介されている。ダムを建築した資料や古写真により、観光客にいっそう烏山頭ダムをわかりやすく説明できる。

2,烏山頭水力発電所
2000年10月に施工され、2002年8月27日から運営されている。 嘉南農田水利会と台湾化学繊維会社と共に作った嘉南実業株式会社が投資し台湾で最初の民営水力発電所である。
ダムから送水口まで20メートル余の段差を利用した水力発電で、年平均42.7万ボルトの発電量は全て台湾電 力会社に売り出している。

3,八田與一の銅像
八田技師がダムと嘉南平原を建設した偉大な貢献を讃えるため、働いたパートナと現地の農民と共に出資して銅像を鋳造した。銅像の姿は作業服を着て、右手に頭を支え、左手に足の上に置いて、どのようなダムを造るかをまじめに考えた八田技師の姿をイメージした。銅像の後ろに八田與一ご夫婦の墓地である。銅像を置いた場所は、ダムの一番高いところで、ここから、一生をかけて成し遂げだダムのきれいな景色を眺めることがてきる。

4,蒸気機関車
園内に保存されている蒸気機関車はベルギー製でダムを建設する際に使用された。当時、砂、資材及び作業員、住民を運んだりした大切な交通手段であった。
 荷物の運送と住民の交通手段として大切な責任をもった蒸気機関車を大事に保存して、人々にダム建設当時の辛い思いをしのばせる。

5,慰霊碑
ダム建設の工事中、取水口トンネル落盤事故等で134人の犠牲者や病気で亡くなった従業員のため立てられた。慰霊碑の正面には八田技師が書いた慰霊文があり その他の三面には八田技師の強い要請により台湾人、日本人を一切差別する事なく、亡くなった順番で一人一人の名前が刻まれている。

6,親水公園
烏山頭ダム風景区は豊富な水資源を利用し、敷地内には南洋風の親水公園をの受けられている。ウオータースライダー、ヤホトンネル、子供エリス、多機能プ-ルなどの施設があり、家族、親子連れでリゾート気分が味わえる場所となっている。

7,旧送水口
珊瑚飛瀑とも呼ばれている。このダムの現場責任者八田與一技師は、太平洋戦争の最中1942年徴用されてフィリピンに向かう途中、アメリカの潜水艦に撃沈されこの世を去り、その妻の外代樹(とよき)は、1945年9月1日に、夫が心血を注いだ烏山頭ダムの放水口で身を投げて後を追いった。享年45歳だった。その日はダム工事が開始されて25周年の記念日だった。
1997年には、新送水口の施設が完成した。

8,平圧塔
煙突状の形で旧送水口の隣にある。高さは約6から7丈、幅は約コンクリート石柱3本。送水管内の水圧を安定させるための施設である。

9,香樹大道(シャンゼリーゼ通り)
ダムの完成時、日本から桜の木を持ち込まれ植樹された。現在、初春には長さ1.2kmの大通りに綺麗な桜の花びらが飛び交うので「シャンゼリーゼ通り」の名前で呼ばれている。

10,烏山頭ダムの堰堤
標高66.66m、長さ1273m、高さ56m、堰堤上の幅は9m、底の幅は303mである。「八田ダム」と学術的に呼ばれているという。専門的には「セミハイドロリツクフィル工法」と呼び、この工法のダムはアジアでは今もここだけで、国宝の称号が与えられている。

11,天壇公園
天壇とは、毎年冬至の日に皇帝が訪れ、天を祭り豊作を祈った場所である。1977年に完成した天壇の外観は、中国北京にある天壇と同じで、原寸四分三の大きさで作られた。形は円形を主体とし、地下1階地上4階の建物である。

12,つり橋
1930年に完成したつり橋は当時林地パトロール員、そして嘉南村民、大崎村民の主な通路として建てられた。長さ79m、幅2.3m、橋の荷重は10名。1986年に建て直され、「虹の吊橋」と呼ばれている。

13.余水吐
堰堤の南にある余水吐は、長さ636m、入口の幅124m、出口の幅18m。海抜58.18mの高さに60個の放水穴があり、最大放水量は1秒間に1500立方メートルで、水位が58.18mを超えると 自然に宮田川に流れ込むようになっている。















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